瞼の重たい目をこすって枕元の腕時計を見ると、何と0時近くである。時差ボケの抜けない身体には辛い。
不承ながらもヨザックはのっそりとした動作で起き上がると、電気の明るい方へと向かい、顔を出した。
酒臭い空気の中で、幼馴染みがダイニングテーブルに突っ伏している。
それはヨザックの就寝前と殆ど変わらない光景だった。変わっているのは、テーブルに並んでいる空き缶の量だ。3本増えている。
「…あーあ、こんなに開けちゃって」
ヨザックは呆れ返りながら、卓に並ぶバドワイザーの空き缶を1つつまみ上げた。どうしても不機嫌な口調になってしまうのは仕方ない。早々に寝ろ、と言ったのに、まだ起きているのだから。
空き缶は6本あり、コンラッドの右手にもう1本握られている。合計すると7本も空けている。明らかに飲み過ぎだ。
ヨザックはコンラッドの肩を揺すぶった。すると、コンラッドは泥酔していても意識がきちんとある事に気づいた。その目だけがひどく冴えて見えて、改めて『何かあったのか』と訊いてみたくなる。
「…」
「いつまで起きてるんすか」
「…ああ…」
うつろな返事だった。コンラッドはゆっくりと顔を起こすと、頭を抱えて俯いた。
差し向かいの椅子に目をやると、ついこの間ユーリが座っていた事を思い出し、どうしようもない気分になる。おそらく、あの頃の辺りからだ。ユーリの存在が自分の中で特別性を強めていったのは。
己のする恋の不毛な事と、挫折への弱さに対して、我ながら呆れ返るばかりだった。
「…今何時だ?」
「0時になる所っすよ」
ヨザックはコンラッドの右手に座った。
「一体どうしたんだよ、こんなに飲んで」
「そんなに飲んでないさ」
『ウソつけ! しこたま飲んでるだろうが!』と、ヨザックは心の中でツッコミを入れた。その証拠にコンラッドの口調はふやけて明瞭ではない。彼が何と言っているのかは、断片的に聞こえる単語から推測するしかなかった。情けないと言えば情けない姿である。
「いいから…ほっといてくれ」
「…」
その投げ槍な物言いでヨザックは察した。
…自棄酒だ。
ヨザックにとってはこの1、2年間、無縁な単語だった。その場をどういった方法で乗り越えようとも、明日する事は変わらない。それならば少なくとも酒をかっ喰らって次の日に頭痛で悩まされるくらいなら、翌日に備えて素直に寝る。コンラッドとて、それを解っている筈なのだが。
「…」
ヨザックはテーブル上の空き缶を片づけた。このまま放置しておいて、明日の朝、酒臭い空気の中で目覚めたくないからだ。
コンラッドは缶の中身を飲み干した。生温く気の抜けきっているそれは、喉を灼きはしても、胸の内奥に暖を与えてはくれない。
無言で切られた電話が再び繋がる事はなかった。2度、3度、4度…7度目でかけるのを止めた。それきりだった。
明日会えるだろうか。果たして練習があるのだろうか?
来週の約束にどれ程の信頼を置けるだろうか。何も言わずに自分を拒絶した以上、ユーリが来るだろうか?
…それ以上は何も考えたくなかった。
「
全っ然解んねぇ、と言う代わりに、隣の男子生徒があくびをする。2時限目にして既に眠たいモードの生徒がちらほらいる。
カリカリとノートを取るシャーペンの音があちこちでしている。
が、ユーリの右手に握られているそれは、微動だにしていない。
「…ところで、ここの12行目と3ページ後の20行目の少女の台詞には、微妙な違いがありますが、この違いの原因は何だと思いますか? それじゃあ…」
国語科教師は教科書から面を上げると、ぐるりと教室を見回し、何となく1人の生徒を選んで指名した。
「渋谷君、どう思いますか?」
「…」
無言。
「渋谷君?」
ヴォルフラムが後ろからユーリの背中をつついた。
反応なし。
今度は荒療治だがシャーペンの先端で背中をつついた。強く。
反応があった。
「えっ…あ、はい。えっと…すいません、もう一度お願いします…」
「一体どうしたんだ、ユーリ。授業は全て上の空、人の話は聞いていない。具合でも悪いのか?」
「何でもないって」
「…? 渋谷、目の下にクマが出来てないかい?」
「どれ」
ムラケンの指摘を受けて、ヴォルフラムが椅子から立ち上がり、机に手をついて婚約者の顔を覗き込んでくる。
「あ、昨日ちょっと、ほら、暑かったからさ」
ユーリは目元を隠すようにして顔を手で覆いながら答えた。
「そんなに暑かったか…?」
首を傾げるヴォルフラム。
ユーリは笑ってごまかした。
…耳に、まだ、あの声が残っていた。
穏やかで優しい声。
たった一言だけだったが…はっきりと覚えていた。
「そういえば渋谷。昨日メールしたのに、どうして返事くれなかったんだい?」
「ああ…ごめん」
「まあ、大した用じゃないんだけどね」
昼食時間に堂々と他クラスに乗り込んで座席を拝借するムラケンだが、別に咎められるような事ではない。
「クラスの男子が今週末、自分の実家でバイトしてくれる人を捜してるんだ。引っ越しの手伝い。僕は頭脳系だからそういうのはちょっと…なんだけど、渋谷ならどうかなと思って」
「悪い、先に予定入ってるんだ」
ヴォルフラムがその台詞に敏感に反応した。
「何だと、逢い引きじゃないだろうな」
「ちっ、違うっての!」
何故かユーリが過剰反応したのを、ヴォルフラムは見逃さない。
「何だその怪しい反応は…やっぱりそうなのかっ!? この尻軽! 浮気者!」
クラスにいる男女の好奇心に満ちた視線が集まる。違うんです、夫婦喧嘩じゃないんです…。
「違う違う! アメフト観に行くんだよ!」
「な…に…?」
ヴォルフラムの胸ぐらを掴んでいた手が止まった。
「おれの知り合いも来るんだけど、良かったらお前も来いよ、村田もどうだ?」
ユーリにとって、それは勧誘ではなく懇願に近かった。誰かについて来て欲しかったのだ。
幸い、ムラケンは即座に笑顔で頷いた。
「僕はそんなものに興味など無いが、お前がどうしても、というなら、一緒に行ってやる」
ユーリは待ち合わせ場所などを確認しながら、目ではヴォルフラムの美貌を観察していた。こうしてじっくり見てみると、本当に可愛い。その気のある人はイチコロだろう、と思う。
おれはヴォルフラムみたいにカワイイ顔してる訳じゃないのに、何でおれにホレちゃったんだろう…コンラッドは。
何度も思い出してしまう度、あれは、笑えないジョークの類でない事を確信せざるを得ない…と思うのは、自分の自惚れか勘違いだろうか。あまりに真摯過ぎたように感じるのだ。
何と答えたら良いのか解らない。いわゆる『お友達でいましょうね』的な答えは一般的な故に安易な解決方法でもあったが、それが自分の本心に合致しているとはユーリは思えない。ひょっとすれば、煩悶している現状から逃れる為の返答の仕方でしかないかもしれない。
別に、コンラッドに好かれていても構わないのだ。今だって嫌いではないから、一緒にいて楽しいと思っているから。
しかし、自分はどうなのだろうか…?
彼に自分の気持ちを説明するのに相応しい言葉を、どうしてもユーリは思いつく事が出来ないでいた。
野球の練習のない事を心の何処かで嬉しく、そして残念に思いながら、ユーリは帰宅した。
父は勿論、兄もまだ家には戻っておらず、母親1人が玄関へと出てきた。いつもの少女趣味なエプロンをし、無意識におたまを持ったまま出てきた所を見ると、夕食の支度でもしていたらしい。キッチンからリビングを通して漂ってくる匂いからして、ビーフシチューだろう。
「お帰りなさい、ゆーちゃん」
「ただいまー」
抑揚のない挨拶を返し、靴を脱いで家に上がるユーリ。
「あっ、そういえばゆーちゃん。さっき、お電話があったわよ?」
何気ない事を伝えたつもりなのに息子がいきなり表情を豹変させたので、美子ママは少し驚いた。
「誰から!?」
「えっ、村田君よ?」
「あ…なーんだ」
また青菜に塩状態に戻る。というより、既に塩を振ってしおれた青菜に、更に塩を追加したような感じだ。
「ゆーちゃん、元気ないわねぇ。どうかしたの?」
「何でもないよ」
素っ気ない返事の後、ユーリは自分の部屋へと向かった。
グウェンダル並にひそめられた、コンラッドの眉。
その理由は機嫌の悪さではない。
「…まだ頭痛いのか?」
「ああ」
二日酔い、である。
「ったく、あんなにガンガン飲みまくるから」
「…」
全くその通りなので、コンラッドは反論出来ない。頭痛のせいで反論する気力もない。
ヨザックの手が後ろから伸びて、コンラッドの髪を簡単に整える。
「さて、やりますか」
彼の手にはハサミがあった。
土曜の朝、鏡の前に立つと、クマが少し目立って見えた。
昨夜は寝た気がしなかった。
「う…ま、マッスル度が高い…」
ユーリは会場周辺に近づくにつれ、何故か体育会系オヤジが多い事に狼狽えた。ついでに駐車している車も多い。
「お前はそういうのが好みなのか」
「違うって。そりゃ、少しは筋肉つけたいけどさー…」
待ち合わせ場所は試合会場の正面入り口。
まだ、コンラッド達の姿はなかったので、ユーリは少し安堵した。未だに心の整理がついていない。
「誰もいないじゃないか」
「開始40分前じゃ、来てないのも無理ないだろ」
3人はバス時間の都合で40分前に来てしまったに過ぎない。
ヴォルフラムは帽子を少し直した。ユーリから借りた、というより、貸し付けられた物だ。
「あ、それ、やっぱり小さい?」
「小さくはない。…そもそも、何故こんな格好をしなくてはならない。それにどうして僕だけ、こんなものを被らなくてはならないんだ」
わがままプー注意報、発令中。
「だってお前の格好目立つんだもん」
ヴォルフラムが着ているのはユーリの服だ。最初に合流した時の服は、ユーリとムラケンの意見一致により、家で説き伏せて着替えさせた。3人揃って似たり寄ったりの服装だが、素材がいいせいか、それでもヴォルフラムは2人より輝いて見える。
「15分間位、何処かで座ってないかい?」
ムラケンの提案により、会場近くの公園へと3人で移動を開始した。
途中、2つある駐車場のうち、小さい方の駐車場の前を通過する。
無意識に、ユーリはそこにコンラッドの姿を探し求めた。
そして、立ち止まった。
「…渋谷?」
見つけてしまったから。
開始までまだ40分もあるというのに、もう会場に着いた。
余裕の到着と言いたいが、残念ながらそうではない。遅刻する可能性の方が高かった。
コンラッドの支度がどえらく遅かったのだ。デートにでも行くかの如く30分間も服装に悩んでいた為、結局ヨザックが適当に決めて着せてしまった。
「…おい、どうしたんだよ」
なかなかシートベルトを外して運転席から降りようとしないコンラッドに、助手席から声をかけるヨザック。
「…いや、何でもない」
朝から様子がおかしいコンラッドだったが、運転中も無口であった。
「あの坊っちゃんも誘ったんだろ?」
「ああ。友達も連れて来ると言ってた」
2人は車から降りた。鍵をかけて何気なく顔を上げると、こちらに視線を向けて立ちすくんでいる1人の少年と目があった。
ユーリの身体が強ばった。
コンラッドの表情が変わったように、ユーリには見えた。ヨザックも驚いている。
…驚いてる? でも、何で?
ブロックを乗り越えて駆け寄って来たコンラッドが開口一番に言った台詞は、ユーリの想像を超えていた。
「お前…ヴォルフラムじゃないか!」
…はい?
コンラッドはユーリではなく、隣のヴォルフラムを見ていた。
ヴォルフラムの双眸は怒りに燃えていた。
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