「何故、お前がここにいるんだ!」
きっとコンラッドを睨み付けるヴォルフラム。
「それは俺の台詞なんだが…」
「僕はここに試合を見に来たんだ!」
コンラッドとヨザックが顔を見合わせる。その様子を見て、ユーリは思った。
…ひょっとして、いやひょっとしなくても、コンラッドは髪を切ったのではないか、と。
会話に入り損ねていたユーリだったが、おそるおそる尋ねてみた。…ヴォルフラムに。
「ヴォルフ…コンラッドと知り合いなのか?」
「知り合いも何も、こいつはっ…!」
ユーリの方を向きながらびしっとコンラッドを指さすヴォルフラムの手が、怒りに震えている。
コンラッドはというと、苦笑しながらその手に自分の手を置いて、下ろさせた。
「…ヴォルフラムは俺の弟。父親違いのね」
すこーん。
ししおどしが、頭の中で鳴ったような気がした。
「…おっ…おとーとぉ!? って事はあれ、グウェンダルとヴォルフラムが兄弟で、ヴォルフとコンラッドが兄弟で、そのどっちも父親違いの兄弟って事は、グウェンダルとコンラッドも兄弟って事!?」
「あれ? グウェンダルにも会ったんだ」
ものの数秒でユーリの脳内回路は混乱の極みへと近づいた。
「に、似てねぇー!」
ユーリの素直な叫びに、コンラッドは再び苦笑いを浮かべる。
「気安く僕に近づくなっ!」
ヴォルフラムが激しくコンラッドを払いのけたので、ユーリとムラケンは目を見張った。
「僕はお前を兄だと思った事など、一度もないぞ!」
わがままプー注意報が、警報に変わった。
「はいはい。解ったからこんな所で朝から大声出さないでくれよ」
予想外の展開により、考えていた台詞も何もかもがパーになってしまったが、自分本来のペースを取り戻しつつある事をコンラッドは感じた。
「それで、ユーリ達がヴォルフラムと一緒なのは、何故?」
弟に聞いても返答してくれない事が分かり切っていたので、コンラッドはユーリに訊いた。
「ああ、こいつ、おれのクラスメイ…」
「ユーリは、僕の婚約者だ」
胸を張って『僕の婚約者』を殊更に強調するヴォルフラム。
コンラッドの表情から笑顔が一瞬消えた。
何て時に何て事を言ってくれるんだよ、ヴォルフ!!
そう怒鳴りつけたい衝動は、心の中だけに抑えておく。現実のものにしてしまえば、必ずその理由を詰問されるだろうから。
「…ああ、グウェンダルから聞いたよ、お前が男と婚約するって話は。そうか、相手はユーリだったのか」
「お前こそ、ユーリとどういう関係なんだ?」
「何、ちょっとした知り合いさ」
さらりと笑顔で答えたコンラッドだったが、その目が笑っていない事に、ヨザックとムラケンだけは気づいていた。
「それにしてもヴォルフラム、ユーリと…」
「ユーリユーリと、僕の婚約者を馴れ馴れしく呼び捨てにするな!」
「ムチャ言うなよ、ヴォルフ」
ユーリは言った。
自分とヴォルフラムが知り合いであると同時に、自分とコンラッドも知り合いなのだから、親しい口を利いても何らおかしい所はないだろうに。
「しょうがないなぁ。じゃあ、何て呼べばお前は満足するんだ?」
「む…」
返答に詰まってしまったヴォルフラムだったが、意外にもムラケンが助け船を出した。
「『陛下』でどうだい? それならいいんじゃないかな」
ヨザックが『何じゃそりゃ』と言わんばかりの顔をした。本来の名前『渋谷有利』をひねったようなあだ名ではないせいだろう。
「じゃあ、『陛下』」
コンラッドは、ご機嫌斜めの弟に従う事にした。これ以上彼にキャンキャン騒がれて、周囲の目を引きたくはない。
「中に…入りましょうか」
ついでに敬語に直した所で、ようやくヴォルフラムの怒りも落ち着いた様であった。何だかすさまじい違和感を感じるが。
「そうだね。とりあえず、中に入って席に着こうか」
ムラケンがぽんとヴォルフラムの背中を叩く。
「行くぞ、ユーリ!」
「あっ、ちょっ、ヴォルフ!」
ヴォルフラムはユーリの腕をむんずと掴むと、ずんずん先に行ってしまう。怒り肩で。
「…『ヴォルフ』…ね」
表面上は笑みを口元にたたえながら、コンラッドは呟いた。
筆舌に尽くしがたい程の居心地の悪さ。
どうしてこんな事になったんでしょうか、お袋さま…と、ユーリは考えた。
しかも、席順がそれに拍車をかける。ユーリの右隣にヴォルフラムが座っているが、その反対、つまり左隣にコンラッドが座っているのだ。
どうしてこんな席順で座ってしまったんだ…と、ユーリは今更ながら後悔していた。ヴォルフラムの隣でヨザックと談話で盛り上がっているムラケンを、羨ましいとまで思ってしまう。どうやら、ユーリの理解の範疇を超える理数系の話をしているらしかった。
右を向く。ぶすっとした不機嫌な表情のヴォルフラム。ここでコンラッドと顔を合わせた事が、余程気に入らないらしい。
左を向く。正面を向いている無表情なコンラッド。こちらは、一体何を考えているのか不明だ。
いずれにしろ、どちらに話しかけても気まずくなる事は間違いない状況下にあった為、ユーリは席を立った。
「ユーリ、何処へ行く?」
「ちょっとトイレ」
嘘である。場所を変えて、とりあえず深呼吸でもしたかった。
観客席から出てゲートをくぐり、そこでユーリは壁に手をついて深呼吸した。壁はコンクリートなので少し冷たい。
いきなり背中を叩かれて、思わずびくっと身体を震わせて振り返ると、叩いたのはコンラッドだった。自分の後をついて来たらしい。
「ユーリ、トイレは?」
「あー…やっぱり止めたんだ」
コンラッドが微笑した。元々トイレに行く気などなかった事を見抜かれている様に思われた。
「そういえばさ、コンラッド…ひょっとして髪切った?」
「ヨザに切ってもらったんだよ」
「へえ…意外と器用なんだ」
雰囲気が軟化しかけたが、一時的なものでしかなかった。
沈黙が漂う。
「…あのさあ…もしかして、それ…おれのせい?」
コンラッドは微笑して首を左右に振り、否定した。
「前から切ってもらう約束はしてたよ」
ユーリに振られた事とは関連性はない。恋に破れて髪を切るなど、あまりにセンチメンタルだ。…しかし、自棄酒はやってしまったが。
自分でも浅慮だった、唐突過ぎた、早すぎたと思っている。
…あんな事を言うつもりはなかった筈なのに、何故だろうか。
「おれ…ごめん。結局、電話、かけ直さなかっただろ? だから…」
「ああ、気にしなくていいよ」
コンラッドの方もまた、いわゆる『お友達でいましょうね』的な言葉も何もなく相手に拒絶されてしまった以上、日を改めて電話をかけ直すような気にはなれなかったのだから。
「でもさ、あれは違うんだよ。違うって言うのは…わざと切ったんじゃないんだ。あれは、その…」
「…?」
「…びっくりして…携帯、排水溝に落としちゃったんだよ」
ぱちくり。
「…は?」
思わずコンラッドは間抜けな声を出してしまった。
「携帯、水の中に落として壊しちゃったの! おかげで、親には叱られて携帯取り上げられてさ」
「ああ…」
ほっとした。そして、思わず笑ってしまった。この数日間気落ちしていた自分が馬鹿らしいとさえ思ってしまう。
「てっきり嫌われたのかと思った」
今日も来てくれないのではないか…と思って服装に悩んだ事は、あまりに情けなさ過ぎるのでとても言えない。
「…ユーリ。ヴォルフラムとは本当に婚約して…?」
「してないって」
「けれども、ヴォルフラムはあの通りだからね。強引に迫ってきかねないよ?」
「コンラッド…どしたの? 何か変だよ?」
「うーん…やきもち、かな」
衝撃的かつ恥ずかしい台詞をさらりと言ってのけるコンラッドに対し、何故か言われた方のユーリが赤面してしまう。
壁に背中を預けて俯いたまま、思い切って質問をした。
「なあ、コンラッド…」
「はい」
「ホントに、おれの事が好きなの?」
「好きですよ」
ユーリがくるりと反対方向を向き、額を冷たい壁に当てる。
「どうしたの?」
「いや…改めて言われると尚更恥ずかしいっつーか……いいのかなあ」
顔を赤くしているユーリを、コンラッドは率直に可愛いと感じた。
「何て言えばいいかな…おれは、あんたの事が好きだよ。まあ、あんまり出来すぎてて、勘弁してくれよ〜っ、とも思うけど」
「…断りたいなら、それでもいいよ?」
言ってから、『また心にもない事を』と、自分で自分を馬鹿だと評した。
本心ではちっとも良くないが、十中八九無理だと思っていた以上、仕方のない事だとコンラッドは感じた。どうも、彼は恋愛において、いわゆる『去る者は追わず』的な傾向に逃げてしまう事があって、それで後悔する事が何度もあった。譲りたくはないが、強引に出る勇断が出来ない。
「迷惑がってる訳じゃ…」
「何をしている、お前達!」
いつまでも婚約者が戻らない事に業を煮やしてやって来たヴォルフラムが、ずかずかと歩み寄ってきた。
「さあさっさと戻るぞ、ユーリ!」
ヴォルフラムがユーリの腕を掴んで引きずっていく。これ以上話す事は何もないと判断したコンラッドは、黙ってユーリを連れて行かせた。
自分の先を歩いて行くユーリを見て、自分の気持ちを再確認した。
…傷つけたくはないが、しかし、渡したくないと。
ユーリは何となく後ろを振り返った。
コンラッドと視線が合って、優しくそれに射すくめられた気がした。
そんなに…おれが好きなの?
しとしとと降る雨。梅雨の季節だ。
ユーリはワイシャツの胸元を掴んでぱたぱたと上下させた。何せ、湿気で蒸し暑くてたまらない。
もう放課になって20分も経過しているのに、ムラケンが玄関に来ないのだ。遅れるという連絡は来ていない。携帯があったならば、先に帰る旨をメールで告げて一人で帰宅したかもしれない。
どの道雨は止まない一方だったので、雨宿りの一環だと思えばそう苛立つ事はなかった。
生徒玄関前をギュンターが横切る。ユーリに気づくと彼は立ち止まって近づいてきた。
「あ、ギュンター」
「陛下、このような場所で何を…?」
「村田の事を待ってるんだ。あ、そうだギュンター、どうしてヴォルフラムとコンラッドが兄弟だって教えてくれなかったわけ?」
「はっ…? あ、いえ、申し訳ございません。既にご存知かと思いまして」
「いや、頭下げる程の事じゃないんだけどさ。そう言えばグウェンダルにも会ったよ」
「グウェンダルにもお会いになられたのですか?」
「うん、あの3人、全っ然似てないから超びっくりしたよ。ギュンターはコンラッドの家庭教師だけあって、3人共顔見知りなんだ」
「はい」
ふと、小さい頃のヴォルフラムの姿を、今の16歳の姿をやや幼くした姿を頭の中で思い浮かべる。羽根と輪っかをつければ、まさに天使そのものだっただろう。
「それにしても、あっついなあ…」
再びボタンの1つ空いたシャツを掴んで胸元に空気を入れる。
ギュンターの目が、ユーリの首にかかった首飾りに留まる。
「陛下、それは…」
「え? ああ…この首飾り? コンラッドから貰ったんだ」
「…」
不思議にも、ギュンターは驚いている様であった。
「? どうしたの?」
「いえ、何でもございません」
さっと目を背けるギュンター。彼のこんな反応をユーリは初めて見た。
梅雨に入ってからとんと顔を見ていないが、コンラッドとユーリの関係に変化は全くなかった。
相手が相手なので、まさか試しに付き合ってみる気にはならなかったが、時々『ああ、この人おれの事スキなんだよなあ…』と改めて考え、そして意識すると、ユーリは居たたまれない心地になってしまう。
ギュンターが視線をずらした時、視界の端に見慣れた人物の姿を認めた。その人物は雨の中、小走りで玄関までやって来た。
大学生かな? とユーリは思った。いずれにしろ学校で見かける顔ではない。教員でもなければ事務員でもない。だが、何処かで見た事があるような気がする。彼女は長い髪を後ろで編んで垂らしていおり、両手でキャリーケースのような物を抱え、男持ちの傘を1本持っていた。
「ギーゼラではありませんか。何故ここに?」
「父上が傘を持って行かれなかった事を思い出したので」
…え。今、何て言いました?
「そうですか、それはありがとうございます」
ギュンターがユーリに向き直る。
「陛下、紹介致します。私の娘のギーゼラでございます」
「…娘って…ギュンター、結婚してたの!?」
「しておりませんっ!」
力一杯ギュンターは否定した。…涙目&鼻声で。
『養女です』
ギュンターとギーゼラの声が被さる。
「ああ、養女ね、なるほど…いや、それはそれで驚きなんだけど」
それにしても美人の娘さんだなあ、とユーリは思った。
「ギーゼラ、こちらは渋谷有利陛下です」
「『陛下』は余計だって。えーと、ギーゼラさん? よろしく」
「こちらこそ」
ギーゼラはにこにこと微笑んでいるが、その笑顔に何だか癒される。
「大学生?」
「いえ、看護学校生です」
という事は、将来は看護婦だ。こんなナースさんなら、ぜひ一度お世話になりたい。
「そう言えば…」
と、ギュンターは自分用の傘を受け取りながら、ギーゼラの身なりを観察する。
「どうやってここまで来たのですか、ギーゼラ」
「あれ?」
ユーリが来客用の駐車スペースを見るなり、首を傾げた。
「あれ、コンラッドの車じゃん」
「コンラートに、ここまで?」
「はい。道端で偶然お会いして、ここまで送って下さいました」
雨模様だからだろう。そんなコンラッドの親切さを心の何処かで憎らしいと思うのは何故だろう…?
「おれ、ちょっと話しに行く」
ユーリは傘を差し、水たまりの出来たアスファルトを踏みながら車に駆け寄った。
道端で偶然ギーゼラに出会えた幸運に、コンラッドは感謝していた。
だが彼女やギュンターがユーリと親しげに会話しているのを見ていると、自分の心の狭量さが良く解る。こちらに気づいて欲しいと思いながら、フロントガラスを通してユーリを見つめていた。
それなりに望みはあるのではないかという淡い希望が、胸の内にはある。
だからこそ、これ以上急かすつもりはない。
ユーリが雨に構わず車に駆け寄ってきた。すぐさま窓を開ける。
「コンラッド。ギーゼラを送って来たんだって?」
「貴方に会いに来るついでにね」
ユーリが目を丸くした。
「おれに…会いに?」
「だって、ここ最近は梅雨で雨続きで野球の練習はなし」
「…」
「…会いたかった」
それだけで学校まで行くのは図々しく思われて…だから、養父の傘を持って歩くギーゼラを見かけた瞬間、まさに格好の口実が出来たと思った。
「良かったら家まで送ろうか?」
「今日は遠慮しとくよ。自転車だし、村田を待ってるから。…ごめんな」
「いいえ」
襟の開いた所から、ユーリが首に何かかけているのが見えた。自分のやった首飾りを、肌身離さず持っていてくれているのだ…じんわりと幸福感が湧いてくる。
ユーリが以前と殆ど変わらない接し方をしてくれるのが、嬉しかった。
「渋谷ー!」
ムラケンがようやくやって来た。玄関前で手を振ってユーリを呼んでいる。
ユーリはコンラッドと別れ、ムラケンと2人で自転車置き場へと向かった。次第にひどくなってくる雨の中、片手で傘を差しながら自転車を出す。
去り際、ちらっとだけ、コンラッドとユーリの視線が合った。
夜。
「遅いわねえ、ゆーちゃん」
美子ママがリビングにいる家族に聞こえるような大きい声で呟く。
「んー?」
野球中継に熱中していた勝馬パパだったが、きちんとそれを聞き取っていた。
「ゆーちゃんがお風呂に入って、もう1時間半も経ってるのよ」
「そういやぁ、そうだな…」
ユーリが野球中継そっちのけで入浴した事自体、妙と言えば妙だ。
美子ママは心配になって、ぱたぱたと軽い足音を立てて廊下を小走りに抜け、バスルームへと向かった。
廊下からドア越しに声をかける。
「ゆーちゃん? もう上がったら?」
しかし、返事は全くない。
「ゆーちゃん? 開けるわよ?」
かちゃりと静かにドアを開けると、風呂上がりのユーリが脱衣所の壁に手をついて、何やらぼーっとしていた。素っ裸で。
「のぼせたの?」
その問いでユーリははっと我に返った。
「わああっ! ひ、人がフロに入ってる最中に、ドア開けないでくれませんか!」
慌ててドアを閉めるユーリ。
「だって、ゆーちゃん、いつまで経ってもお風呂から上がって来ないんだもの。どうかしたの? 具合悪いの?」
「何でもないですっ! だから覗くなよっ!」
こっちはただ心配しただけなのに…本当、男の子ってつまんない。
「本当に、最近のゆーちゃんはどうしちゃったのかしら…」
「? 嫁さん、ゆーちゃんどうかしたの?」
勝馬パパがテレビから妻へと視線の方向を変える。キッチンでは勝利がテスト勉強に備えてコーヒーを淹れていた。
「最近、良くため息つくし、食事中にふっとお箸が止まってる事があるし…」
「おふくろの気にしすぎじゃないか?」
「でもねえ…あっ、分かったわ!」
美子ママがぽんっと手を叩いた。喜色満面で。
「ゆーちゃんは恋をしてるのよ」
「ゆーちゃんが!?」
喫驚の余り手に持ったリモコンを床に落としかけた勝馬パパに対し、勝利は平然として動じない。
「恋だあ? あの『一に野球、二に野球』のゆーちゃんが? そんな訳ないだろ、おふくろの考えすぎだよ」
「でもねでもねっ、最近のゆーちゃんはこう、ほう…っと、遠い目をしてる事があるのよ。ああ、ゆーちゃんもついに恋煩いするお年頃なのね。相手はどんな子なのかしら…」
「嫁さーん、何かの勘違いじゃないのー?」
しかし、最早1人で夢世界に入ってしまった美子ママには、勝馬パパの言葉は全く聞こえていない。
そこへ話題の人、ユーリが来た。湯上がりのパジャマ姿でキッチンに入り、水をぐぴっと飲んで椅子に座る。
渋谷家の次男は、家族3人の視線には全く無頓着なまま、ダイニングテーブルに肘をついてため息をついたのだった。
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ディモルフォセカをくれた君(11)