ディモルフォセカをくれた君(6)
試合当日。

8時50分。グラウンドにはまだ殆ど人が来ておらず、特に相手方の姿は全くない。
「わざわざ差し入れまで持って来てくれたんだ。ありがとな、コンラッド」
ユーリは嬉しそうに笑い、ポカリのダンボール箱を受け取り、ベンチに置いた。
「そうだ、ユーリ。これを」
「?」
コンラッドが右手を差し出す。何かと思えば、青く澄んだ色をした石だ。紐に通してある。この青を真っ先にユーリは『ライオンズブルー』と形容した。
「お守りに、と思って」
「いいの?」
その問いかけにコンラッドは頷き、ユーリに首飾りを渡す。文字通りそれを『手放した』時の寂しさは、予想していたよりも遥かに軽かった。
「そう言えばこの間、村田がさぁ…」
ユーリはそれをすぐに首にかけた。
「マネージャーの、あの眼鏡の子?」
「そうそう。この間、どーゆーシャレだか知らないけど、バナナ持って来たんだよ」
チーム全員が思わず『俺たちゃサルか!?』と、つっこみを入れてしまったのを覚えている。ムラケンは笑って『栄養豊富だよ』と言っていたが、ダイエット中の若い女性でもあるまいし。
「渋谷ー!!」
噂をすれば何とやら、ムラケンがやって来た。両手にスーパーの袋を下げている。見た目からして結構重そうだった。
ムラケンはユーリの側にいる見慣れない青年を見て、それがユーリが話をしていた『コンラッド』である事に気づいた。
「どうも、村田健です。コンラート・ウェラーさんですよね?」
にこやかにムラケンは挨拶した。
「渋谷から話は聞いてました。応援に来てくれたんですか?」
「そうだよ」
「ありがとうございます。良かったね〜、渋谷。これで、チアガールも女子マネもいないウチのチームのスタンドが華やぐよ。相手チームは、3年生の彼女達がチアガールを担当してるらしいから」
笑って冗談を飛ばしつつ、ムラケンはベンチにどさっと両手の袋を置いた。
「何それ?」
「ん? ふっふっふ…」
怪しい笑いを浮かべながら、袋に手を突っ込むムラケン。
「ポ〜カ〜リ〜ス〜エット〜」
ドラえもん調。
「…あれ? 意外にも喜ばれてないなあ。ひょっとして…アクエリアスの方が良かった? 昨日から激安セールだったから、こっちにしたんだけど…」
「いや…」
バナナより遥かにマシな物ではあるのだが。
「ごめん、俺も同じ物を持って来ていたんだよ」
コンラッドはベンチに置かれているダンボールを指さした。ムラケンが納得したような表情を見せる。
「いいじゃん、今日暑くなりそうだから。余ったなら相手チームにあげてもいいし」
「それもそうだね。何処に置いておく?」
「じゃ、あっちに」
ユーリは再度ダンボール箱を両手で抱えた。それ程重くなかったが、場所を移す途中で大きい石を踏んでよろけてしまい、ベンチの角に背中をぶつけた。
「っつー…」
「大丈夫かい、渋谷?」
「平気」
少しズキズキと痛んでいたが、それきり、試合中も殆ど気にならなかった。



試合は0対3、ユーリ達のチームの負けに終わった。
話の流れで帰宅途中、ユーリはコンラッドの自宅に寄る事になった。
ユーリが入った事のあるマンションとは一線を画した、警備体制の整った構造のマンションだった。エントランスに警備室があって、そこからゴツい警備員が爛々と睨みをきかせている。しかしコンラッドによると、これよりもっとセキュリティの厳しいマンションがいくらでもあると言う。どんなマンションなのか気になる所だが、想像する限りでは、あまり行ってみたいとはユーリは思わなかった。
4階でエレベーターから降りた時、やはりと思ったのは、監視カメラの存在だった。
「変わった形の鍵だな」
「ああ、これ?」
玄関でコンラッドが取り出した鍵に対する、ユーリの感想だった。一見普通のシリンダー錠と変わらないが、よくよく目を凝らすと、店に行って合い鍵を作ってもらう事が出来そうにないような、複雑な形状を成している鍵だった。
ドアにはドアスコープも郵便受けもつけられていなかった。それらを利用して外から室内を覗く事が可能だからだろう。郵便受けについては、下に設置されているので問題あるまいと思われた。
中にお邪魔すると、清潔な印象を与える室内だった。男性の一人暮らしだけあって、色気も素っ気もないと言えばそうなのだが、コンラッドの生活能力の有無がはっきりしている。今時死語だが、婿にも行けそう。
やはりと言うか何というか、かなりの数が余ってしまったポカリを冷蔵庫に入れると、コンラッドはコーヒーを出した。インスタントだがそれなりに美味しい。最も、ユーリの舌は豆の違いなど分からないが。
ダイニングにあるテーブルに向かい合って座り、一服した。
「なあ、コンラッドって子供が好きなの?」
「どうして?」
唐突な質問にコンラッドは戸惑ったが、すぐに微笑した。
「だって、休みの日に高校野球の応援って…おれの兄貴だったら、そりゃー面倒くさがりそうなもんだけど」
「昔から年下の子供の遊び相手やお守りをするのは好きだったよ。弟の面倒を見るのも、楽しくて仕方なかった位」
「へえ、コンラッドって弟がいるんだ。いくつ? あんたと似てる?」
「俺と違って、弟は母親似かな。ユーリと同じ年頃だよ」
最近めっきり母親の所に顔を出していないので、弟の顔も見ていない。だが少し前から反抗期真っ盛りで、電話してもあまり話をしてくれない事が多かった。
「1人だけ?」
「弟が1人と、兄が1人」
「じゃあ、全部で3人兄弟か」
「ユーリの所は?」
「おれの所は、大学生の兄貴が1人」
ユーリはコーヒーを一口すすった。
「…あ、そう言えばギュンターから聞いたんだけどさ、レーシングカーって一試合毎に廃棄するんだって?」
「そうだよ。解体して燃えないゴミに」
正確には、機械のパーツとして輸出品に。
「おれ的には、何だか勿体ないような気がするなあ…」
「ユーリ。今、ギュンターの事呼び捨てにしなかった?」
「あー、うん。おれ、あんたの事を呼び捨てにしてるだろ? だったら自分も呼び捨てにしてくれー、って、ギュンターが」
涙と鼻水を流しながら懇願していたのだろうか、と、コンラッドは思った。
「ギュンターはユーリの事が好きなんだろうね」
「うん? まあ、おれも好きだけどね」
呼び捨てにしてお近づきになりたいタイプではないけれど。
コンラッドの表情に、本人ですら気づかないような陰がさす。しかしユーリはそれよりも自分の背中が気になり、座りながら身を捩らせた。朝にベンチの角にぶつけた箇所が、まだ、ズキズキと痛むのだ。
「なーんか背中がかゆいような、痛いような…」
ユーリは椅子から立ち上がり、コンラッドの方に背中を向けた。
「何かついてる?」
試合の後で着替えたので、今ユーリが着ているのは制服だ。学ランの上に着たワイシャツの1点、まっさらな白い生地に赤黒い染みが広がっている。
「ユーリ! 血が出てる」
「えっ、血!?」
コンラッドが席を立って後ろに周り、シャツをめくった。背中の左下を真横に切っている。長さは3センチか4センチといった所だろうか。
いつ切ったのかは明らかだったが、ユーリ本人には怪我をしている自覚は全くなかった。どうも痛むなあ、ぐらいにしか思っていなかったが、まさか出血しているとは。
ワイシャツを脱いでコンラッドに手当して貰った。消毒薬が少し染みる。
傷にガーゼを当てたまでは良かったのだが、絆創膏を切らしていた。2ヶ月ぐらい前に使い切ってから、買い足し忘れていたのだ。
「ちょっと押さえていて。ひとっ走りして買って来るから」
ユーリの左手を取ってガーゼを軽く押さえてもらうと、コンラッドは急いで出かけていった。
室内で上半身素っ裸というのはまだ寒い。ユーリは脱いだワイシャツを前に抱こうとしたが、改めてシャツについた血の染みの大きさを見て目を丸くした。この分ならば、ユニフォームにも多分血がついている事だろう。果たして洗濯しても綺麗に取れるかどうか、主婦業歴ゼロ年なので解らない。
リビングの方で電話が鳴った。部屋の主がいないので出ようかどうか迷ったが、意外に相手は辛抱強く、8回コールしてもなおかけ続けている。ひょっとしたらコンラッドその人からではないかと思い、ユーリはワイシャツを椅子の上に置いてリビングへと向かった。
しかし間に合わず、取ろうとした寸前で電話のコール音は止まった。普通は他人の電話に出るような真似はしたくないので、ちょうど良かったかもしれない。
ユーリは何気なくリビングを見回した。テレビの隣に低い棚があって、その上に置き時計やサボテンと並んで、写真立てが伏せて置かれている。ユーリはそれを振動か何かで倒れたものだと勘違いし、まさかわざと伏せられていたとは思わなかった為、起こしてしまった。
何人かの男女の集合した写真だった。左端にギュンターが微笑をたたえて佇んでいる。かなり以前に撮った写真のようだ。
その隣に若い女性が2人、笑顔で並んでいる。ギュンターに近い方の女性はせいぜい二十歳そこそこだろうと思われ、長い髪を後ろで編んで垂らしていた。もう片方の女性も知らない顔だが、隣にいる見事な体格の男性は有名人なので、ユーリも顔だけなら知っている。アメフト選手のアーダルベルトだ。
不思議なことに、写真の中にコンラッドの姿はなかった。ひょっとしたら彼が撮影したものなのかもしれない。
玄関のチャイムが鳴った。
「あ、はーい」
ユーリは写真立てを元に戻すと、玄関に小走りで向かった。コンラッドが戻って来たのだろうかと最初は思ったが、ドアを開けながらふと気づいた。コンラッドなら、チャイムは鳴らさないのでは…と。
扉を開けた直後、
「うぃ〜っす」
という低い声。その声の主の姿を一目見るなり、ユーリはこきーん、と石化した。
ごっつ逞しい男性(?)だった。何故「?」マークがつくかと言うと…女装していたからである。上から下まで見事な筋肉質体型で、特に上腕二頭筋の発達は素晴らしい。だが、チャイナドレスの如く両サイドに深いスリットが入った服…と言うのは、如何なものか。
ユーリは思わず後ろに退いた。
「…ありゃ?」
ミス・上腕二頭筋(勝手に命名)はユーリの姿を見ると首を傾げ、ドアの外に目を向けた。
「…ここで合ってるよなぁ?」
と、ハスキーボイスで自問自答した。スリットから覗く脚線は、悩ましいどころか逞しい。回し蹴りでもしようものなら、さぞものスゴイ威力を見せる事だろうと思われた。
「ななななな、何ですかっ!? ここ、オカマバーじゃないですよ!?」
「解ってるわよ〜ん。それにしても坊っちゃん…あっ、名前解んないからそう呼ばせてもらうけど…」
ミス・上腕二頭筋はユーリを頭からつま先までじーっと見つめ、そして言った。
「こんな昼間っからそんな大胆な格好だと、グリ江困っちゃうわんvv」
突如おネエ言葉を使い始めたミス・上腕二頭筋。頬を染めながらいやいやをするように逞しい身体をくねらせる。
……一体どちら様なんですか貴方様はっ!?
ユーリの頬の筋肉は少しひきつっていた。



「ヨザック…!?」
オフを利用して久々に女装したのだろう友人の突然の来訪。コンラッドは驚愕を禁じ得なかった。
それにしても、何処からチャイナドレス姿でここまで来たのだろうか。まさか空港から…?
「よう、久しぶり」
久しぶりに直接対面する友人はダイニングテーブルの椅子にどっかと腰掛け、ユーリと談笑の真っ最中だった。自分が外出している合間のちょっとの時間で、会ったばかりなのにもう意気投合してしまったらしい。安堵感を覚えるが、疎外感に似て非なる感情も同時に抱く。
ユーリは出かけた時のまま、上半身背中の傷を手で押さえながら座っていた。寒い思いをさせただろうとコンラッドは思った。
「どうしてお前がここに…」
「やだな、電話したけど通じなかったから、一週間前にちゃんとメールしたでしょ? 休暇取って、今日邪魔するって」
「ああ、だが、日付は確か明日だったぞ」
「?」
「日付を書き間違えたんじゃないか?」
「ああ、そうかも…ここんとこ家に帰ってなかったから、ついウッカリしちまったかな」
「そんな疲れた体調で来たのか?」
「何、一晩二晩徹夜でラボ、って言うのは、いつもの事だからな」
コンラッドは買ってきたばかりの絆創膏を開けると、ユーリの背後に回った。余程急いで帰って来たのか、息が少し切れている。
「走って帰って来てくれたんだ、ありがとう」
「寒かっただろう?」
「大丈夫だよ」
ユーリが笑った。見る人の心を暖める笑顔だった。この人を大事にしたいな、とこちらに思わせる。
「ヨザックって、コンラッドの幼なじみなんだって?」
「そう、ボストンに住んでいた頃、知り合って。…そう言えばヨザック、父上は?」
爽やか好青年の口から『父上』という、何ともお上品な尊称が出たので、ユーリは驚いた。
「ん? お元気だよ。今頃は…」
ヨザックは部屋を見回し、時計を見つけてこう言った。
「まだ、海の上じゃないか? いやー、それにしてもこっちは寒い寒い」
「そりゃ、年中温暖なフロリダで暮らしていれば、当たり前だろうな」
「…?」
ユーリは首を傾げた。
「…ちょっと待った。2人はボストンで知り合ったんだろ? で、今はコンラッドはこっちに住んでて…ヨザックは?」
「俺は現在フロリダ州のマイアミ・デイド郡在住で、CSIに勤務中。ちなみに、専門は足跡なんかの分析っす」
「あれっ? じゃあ、その女装は?」
「ああ、これは趣味と実益を兼ねてるの。うふっ」
『うふっ』の後にはハートマークがついていたに違いない。
どんな実益だ、と、ユーリは心の中でつっこんだ。
コンラッドが絆創膏を貼り終えた時、時刻は12時過ぎだった。ユーリはコンラッドの好意に甘えて昼食を御馳走になっていく事にし、持ってきていた着替えを来てから自宅に電話を入れ、そして空いている時間を使ってシャツの血を落としていく事にした。
ユーリが洗面所を借りている間、コンラッドがヨザックと合計3人分の昼食を作り始めている。血は思ったよりも簡単に落ちそうだった。終わってから適当にワイシャツを丸めていると、ヨザックの声が聞こえてきた。
「…にしても変わったなー、隊長」

…た…『隊長』?
コンラッド…昔、一体何やってたの…?

「ついこの間までは電話でも口もきかなきゃ、笑い声も立てなかったっていうのに。…あの坊っちゃんのせいか?」
「多分な」
会話にまじって何かを炒めている音がする。
「そういや、この間のレース。ダンヒーリー様が不思議がってたぜ」
「父上がご覧になったのか?」
「中継をな。『お前らしくもない単純なミスだった』って仰ってた」
「…」
「まあ、【ルッテンベルクの獅子】の異名にそぐわないような不振ではあるけどな」
「そんな名前を口にするのも、あれから半年経った今では、お前だけさ」
「…そういや、あれ、あの坊っちゃんにあげちまったんだな」
「ああ」
「また、何でだ?」
「…ユーリ、血、取れた?」
自分を呼ぶ声。
「うん、取れたよ」
ユーリはワイシャツを抱えて顔を出した。コンラッドの脇でヨザックが器用にフライパンを操っている。
「ついでに乾燥機にもかけていったら?」
「いいよ、大したもんじゃないもん。洗面所貸してくれてありがとな」
そう言うと、ユーリは荷物の中に丸めたワイシャツを押し込んだ。

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私はベースボールの事などとんと知らない為、試合についてはささっと省きました…すみません…。
そして、コンラッドは昔、一体何をやっていたんでしょうか? 私自身にも解りません(何という無責任)。モノカキ身内は「コンラッドは、実は昔、だった」等という説を唱えておりましたが…ヤヴァイでしょう、それは。