ゴールデンウィークの一般人の過ごし方と言ったら、大抵、二通りに定まる。外出するか、そうでないかだ。
渋谷家の場合は、今年は一家の大黒柱・勝馬が職場の上司や同僚らとゴルフに行く事になった為、後者のパターンだ。
しかし長男・勝利の頭にあるのはサイト更新と勉学の事、次男・有利の頭にあるのは野球の事だけなので、あまり問題にはならなかった。ただし、美子ママからは不平があったのだが。
ムラケンを含めた草野球チームのメンバーの殆どが旅行に行ってしまい、野球の練習は出来ない状況にあった。
「勝利ー、草むしりだってさ」
ユーリが兄の部屋のドアを開けた。部屋は整然としており、棚には弟の理解を超えるような問題集・参考書がズラリ。ついでに広辞苑と、何故か六法全書まで。
で、勝利は机に向かって英文の論文を、辞書片手に読んでいた。
「ちょい待った、この文を訳してからだ」
「あ、そ。おれ、先にやってるから。早く来いよ」
ユーリが階段をたたっと降り、玄関へ向かった。電話のベルが鳴った。ユーリが1階へ降りる頃にその音は切れた。居間のドアが開いており、美子ママが電話に応対しているのがユーリには見えた。
美子ママは息子に気づくと、受話器に向かってこう言った。
「あ、ちょっと待って下さいね。今呼びますから」
「…?」
母が受話器に手を当て、ユーリを呼ぶ。
「ゆーちゃん、お電話よ」
「おれに? 誰だろう…?」
心当たりがない電話を不思議がりつつ、ユーリはそれに応対した。
「もしもし?」
『もしもし、ユーリ?』
「コンラッド!? どうしたんだよ。おれ、電話番号教えたっけ?」
『いいや…ユーリ、この間、俺の車に携帯電話を落としていかなかった?』
「携帯電話…? そういえば…ここんとこ、自分の携帯を見かけてなかったような…」
『俺も昨日まで気づかなかったんだ。それで、連休中に野球の練習はある?』
「ううん、メンツの殆どが旅行でいないから」
『そうか…弱ったな。明日明後日とレース直前の練習で、直接届ける時間は取れそうにないんだ』
「忙しいんなら、休み明けでもおれは構わないんだけど」
『でも、メールが12通ぐらい来ているよ? 勿論見ていないけどね』
角館に花見に行くと言った、知り合いのメールかもしれない。面白い写真が撮れたら、メールで送ると言っていたのを覚えている。
「あっ…じゃあ、火曜日のレース、観に行くよ。その時に貰っていい?」
一瞬、コンラッドが沈黙したような気がした。
『レースを…観に?』
「うん。あれっ、まさか外部者出入り禁止のレースだとか?」
『いや…それなら、係員に話を通しておくよ。会場は分かるかい?』
「うん」
『じゃあ、会場の東口から入って』
「ああ、ちょっと待って。一応メモするから」
ユーリは電話の脇に備え付けてあるメモ帳のペンを手に取り、『東口』と書いた。
「いいよ」
『東口から入れば、すぐにフィールド内に繋がっているんだ。近くに赤いバスが停まっているから、その辺りにいると思う』
「分かった…何時に行けばいい?」
『最初にリハーサルをやるから…レース開始は午前10時から。だから、その1時間前…9時くらいに来てくれると助かるよ。早くて申し訳ないんだけれども』
「ううん、いいよ。午前9時…っと。分かった。練習頑張ってくれよな。…うん、…じゃあ」
ユーリは電話を切り、メモをメモ台から切り取った。その時、誰かの身体と背中をぶつけた。後ろの気配に全く気づかなかった為、びっくりしてユーリは後ろを振り返った。
背後に立っていたのは勝利だった。ユーリの手からひょいっとメモを取り上げる。
「あっ、何すんだよ勝利!」
「おにーちゃんと呼べ! で、何だこれ?」
「知り合いの試合を観に行くんだよ、返せよ!」
ユーリは勝利の手からメモを奪還した。一方、母は何故か瞳を輝かせながら、
「ゆーちゃんゆーちゃんゆーちゃん! 今の電話の人、超カッコイイ声だったわねっ! こう…さーっとミントの風がたなびくような」
と言ってまた、きゃー!と黄色い悲鳴を上げた。
「み、ミントの風ですか…」
きゃあきゃあと瞳を輝かせる母親。呆れ返る兄。
ただ、ユーリは、自分がレースに行くと言った時の、コンラッドの微妙な沈黙が気に掛かっていた。
そして火曜日。
ユーリはバスを乗り継いで、レース会場に到着した。会場の周囲や駐車場などには、色とりどりの旗が立てられている。出場しているチームのスポンサーの広告だと思われた。
会場に着いてまずユーリが気づいたのは、若い女性がやたらといる事だ。双眼鏡にカメラや色紙などを持って、浮かれた様子で友達と談笑している。
コンラッドに言われた通り、ユーリは会場の東に回った。『東口』という名前にも関わらず、南東に位置した場所にそれはあった。そこには2人のゴツい係員の男性が構えており、部外者の出入りを厳しく取り締まっている。
ユーリは一瞬気圧されたが、思い切って係員の1人に話しかけてみた。
「あの…」
「何か?」
「し、渋谷と言う者なんですけど…」
「渋谷…ああ、コンラート選手から話は聞いていますよ、どうぞ中へ」
係員は快くユーリを中に入れてくれた。ささっと早足で中へ入ると、準備で忙しく立ち回る大会関係者で、中はごった返している。ユーリは彼らの邪魔にならないようにしながら、フィールドへと入った。
フィールド内に入って左右を見回すと、赤いバスがすぐ右手に停まっていた。バスの車体の隅には、とある企業の広告が小さいながらも描かれている。これがチーム【ルッテンベルク】のスポンサーの企業なのだろう。
バスの周囲にコンラッドの姿はなかった。窓は内側から閉められている。
もう一度周囲をぐるりと回っていると、バスの中から人の話し声…正確には、男性の怒声がするのにユーリは気づいた。
会話の内容は途切れ途切れにしか聞こえない。その中で『コンラート』という名前が出たのを、ユーリは聞き逃さなかった。
「……良いか、コンラート!! 今シーズンの大会をものにすれば、今のスポンサーよりも更に大企業のスポンサーをつける事が出来る!………スポンサーあってのレースなのだ! それなのにこの間の結果は何だっ!?……」
低い声で、口調からしても、それなりに歳を経た男性のように思われる。立ち聞きしている罪悪感を感じた所に、ちょうどその話は一段落ついた。
ドアを開けて出てきたのは、50代を過ぎているだろう外人の男性だった。背が高く体格も立派だが、歯ぎしりとしながら怒り肩でユーリに背を向けて歩き去っていく。こちらには目もくれなかった。
続けて出てきたのがコンラッドだった。
その暗い顔は、初めて近くで顔を見た時の横顔を彷彿とさせた。
「コンラッド」
声をかけると彼の表情がぱっと変わり、少しだけかもしれないが、明るさを増した。
「ああ、ユーリ」
「久しぶり」
コンラッドはレーシングスーツのポケットから、ユーリの携帯電話を取りだし、返却した。
「ありがとう。なあ、コンラッドが乗るの、あれ?」
ユーリが指さしたのは、青い制服の男性達が集まって整備している、青いボディのマシンだった。
「そうだよ」
「終わるの何時?」
「12時半くらいかな。何処かにまた、お昼を食べに行こうか」
「うん、いいよ」
レース終了後、会場の隣にあるコンビニの駐車場で待ち合わせる事になった。コンラッドに対しては先輩か兄かを相手にしているかのように、とても親近感が強まってきているのをユーリは感じていた。
ユーリが観客席へ立ち去るのと大体入れ違いに、若い女の子達がコンラッドの所へ殺到する。全員、しっかりと紙及びペンを用意済み。その勢いたるや、凄まじい。そんな彼女らに、コンラッドは美子ママ言う所の『ミントの風がたなびくような』という表現に相応しい笑顔を浮かべながら、1つ1つサインしていた。
ユーリはそれを観ながら観客席に入り、見物する場所を選んで歩き回った。
ふと、その足が無意識に止まった。
『若白髪』などと言ったら断罪されそうな程に美しい長髪。コスプレか!? と思わんばかりのブランド系ファッション。8割方、頭に浮かんだ名前の人物に間違いないだろう。
ユーリはそっと歩いていって、肩を叩いて声をかけた。
「ギュンター先生?」
振り向いた美貌は間違いなく、ユーリの学校の音楽教師のもの。こんな、超が20個はつきそうな美形が、そこら中にぽんぽんいる筈がない。と言うより、いてたまるか。それにしても、正面から見ると尚更コスプレまがいに思える服装だが、それが驚く程似合うのだからすごい。
授業中にかけている眼鏡は外しているが、その眼差しの理知的要素は変わらなかった…が、ユーリと目が合った途端、顔色が豹変した。
「な、陛下、何故ここに!?」
「何って、レースを見に来たんですよ。先生も?」
「は、はい」
ギュンターの白皙の貌はほんのり赤く染まっていたが、ユーリはその理由に気づくべくもなかった。
「先生もこういう所に来るんだ…あっ、隣、いいですか?」
「ど、どぞう」
ギュンターは某RPGを思い出させるような返事をしながら、ユーリの為に少し右に退いた。礼を言ってちょこんと座った瞬間、ギュンターが奇声を上げて仰け反る。
「な、何ですか」
「あ、いえ…何でもございません、陛下」
ギュンターの心臓はユーリが自分から30センチも離れていない距離にいる為に、激しく動悸している。
陛下にこの胸の激しすぎる高鳴りが聞こえてしまったら私はどうしたら良いのでしょうああ…等と、自分の世界に入りかけていた。が、
「先生。あの白地のユニフォーム、何処のチーム?」
と、ユーリに質問されて、はっと我に返った。
「あれは【グラン・シマロン】、業界でも最大級のチームです」
「隣は?」
「【プティ・シマロン】です」
「何か名前似てるんだけど」
「スポンサーが同じなのですよ」
意外にもカーレースファンなのかはたまた別の理由か、ギュンターは結構詳しく、試合の進み方などまでユーリに教えてくれた。
「よく来てるの?」
「以前は。しかし、最近は転勤の準備等の関係で来ておりませんでした」
「あー、なるほど。先生は何処のチームを贔屓してるんですか?」
「私は、【ルッテンベルク】を」
「あ、じゃあおれと同じだ。一緒に応援しましょう」
「陛下と同じなどと、身に余る光栄です」
「…さっきから思ってたんだけど、何で先生、生徒のおれに敬語使ってんの…?」
マシンがトラックに並び始めた。整備士らが工具を持って、最終的な整備にかかっている。
「どのマシンも、意外ときれいだなあ」
カーレースを観戦するのは初めてだが、ユーリの頭の中では何となくやたらとクラッシュしているイメージがつきまとっていたので、もっとへこみや傷があるものを想像していたのだ。
「レーシングカーは、大会が終わる毎に解体され、部品は廃棄されるのですよ」
「ええっ!? だ、だって、すっごく高いんだろ!?」
レース開始を告げる長ったらしいアナウンスが快活な声で聞こえ、その後、レースがスタートしたのはちょうど10時だった。スタートから【グラン・シマロン】の白いマシンが他を抜いて先頭を独走し、2位が【ルッテンベルク】のマシン。3位は他の2チームが争っており、以下は点々と続いていた。
順位は2回目の緩いカーブで変わった。【ルッテンベルク】のマシンが抜かれ、3位に落ちる。一体のマシンがトラブルを起こし、黒煙を上げて自チームの整備士が待機している場所に停まった。
3回目のカーブでまたコンラッドが抜かれた。ギュンターが少し眉をひそめたが、レース観戦に夢中になっているユーリは気づかない。
【グラン・シマロン】のマシンがゴールに近づくにつれ、観客の応援と、中継の声が激しさを増す。白い車体が1位を獲得した瞬間、客があちらこちらで立ち上がって興奮気味に歓声を上げた。
「残念、【ルッテンベルク】は4位かぁ。でも、惜しかったよな。…ギュンター先生?」
ギュンターは今までユーリに見せた事がない、深刻な顔つきをしていた。やや険がある顔だ。
彼の視線の先には、マシンから降りてヘルメットを外したコンラッドがいる。その表情は、レース前にバスで見かけたあの表情よりも更にひどく、暗かった。
レース終了後、ユーリは待ち合わせ場所のコンビニ駐車場で、コンラッドを待った。…ギュンターと。
『待ち合わせ相手が来るまでで良いから、もう少し話がしたい』と、ギュンターはユーリをかき口説いたのだ。
「ところで陛下、差し出がましいようですが、待ち合わせのお相手というのは…?」
「うん、ちょっとした知り合いです」
さらっと当たり障りない返事をユーリはしたつもりだったのだが、何故かギュンターがくわっと目を見開いた。
「ま、まさか陛下、そのお相手というのはこ、こ、こ、こ、こ、こ、こ」
「こっこっこって、ニワトリじゃないんだから…」
苦笑しながら、愛用のデジアナGショックのベルトを手でいじった。少し手首が汗ばんでいる。
「恋人ですか!?」
「へっ!?」
自分の想像を遥かに超える珍問に、ユーリは一瞬呆然としてしまった。我に返るまでにかかった時間は、おそらく5秒ほどだろう。
「まっさかー。モテない歴15年のおれが?」
自分で言うのも何だか物哀しいな、と、ユーリは思った。これがギュンターならば、自分とは正反対のモテまくり歴ウン年に違いないだろう。来年のバレンタインに貰うチョコレートが天井まで届くかどうかが、今から既に気になる所だ。
国道から駐車場に青い外車が乗りつけた。フロントのエンブレムがユーリの西武ファン心の琴線に触れる。
車はユーリ達の前に真横に乗り付けた。
が、窓を開けて出てきたコンラッドの顔には、喫驚の色が見られた。
「ギュンター?」
「コンラートではありませんか! それでは…貴方が、陛下の待ち合わせ相手なのですか?」
ギュンターとコンラッドが同時にユーリの顔を見る。
「えっ…何? どういう事なの? 2人って…知り合いなの?」
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ディモルフォセカをくれた君(3)
実は…何度「CSI:マイアミ2」第7話を観ても、この話の元ネタがカートレースなのかカーレースなのか、区別が付かなくて困っています。吹き替えでは殆ど「カートレース」だったんだけどね…しかしデルコは「カーレース」と呼んでいたので、ついつい困惑。結局、気にしなーい、という事にします。どっちでも、大して話に影響ありませんし。
大シマロン・小シマロンの「大」「小」が何故かフランス語なのは、上記の元ネタに出てくるレース最大のスポンサ−がシャンパンメーカーだからです。シャンパンの本場はフランスですから。
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