ディモルフォセカをくれた君(2)
「それで?」
「塩ラーメン食って話して、店出た所で別れた。あそこの塩ラーメン、美味いよなぁ」
ムラケンが新しいサンドイッチを取り出して食べ始めた。
「…にしても、コンラート・ウェラーを知らなかったっていうのは、渋谷らしいよね」
「だっておれカーレースに興味なかったし、TVのレース中継も観ないし…でも、そんなに有名なんだ」
「そりゃあね。何せ、女子高校生から主婦まで超大人気のイケメンレーサーだから。まあ、ここしばらくは負けがこんでるみたいだけどね。昨日のレースも5位だったって、スポーツ紙にあったし」
「その試合ならラーメン屋で観たよ」
あまり自分の試合結果については何も言わなかったが、コンラッド本人も、それを気にしている風であった。
2人が昼食を食べているのは屋上…な筈がない。マンガ等ではよく開放されている屋上だが、2人が通う眞魔高校の屋上はきっちりと施錠されている。
なので、2人がいるのは普段は空き教室の特別教室2だ。クラスからはやや遠いが、他には誰も来ない。
ムラケンが教室の時計を見上げる。
「次の時間、合同で音楽だよね」
ユーリとムラケンは中学時代からの付き合いだが、高校は残念ながら同じクラスと言う訳にはいかなかった。ユーリは普通科だが、ムラケンは成績優秀なメンツが多く集まる理数科なのである。しかし時間割の関係で、体育や芸術などで、一緒に授業を受ける機会が多かった。
「そろそろ移動するか」
ユーリ達は昼食をまとめると、一旦それぞれの教室に戻って授業に持っていく物を用意し、それから再び2人で音楽室へと向かった。
「あー…あの先生苦手なんだよなぁ、おれ」
「渋谷の事を気に入ってるみたいだよ?」
「そりゃ、おれだって嫌いじゃないけどさぁ…ものには限度があるっていうか…」
「まあ、第一印象が悪かったからねぇ。最初の授業の事件は4月中ずっと、学年中で噂になってたから」
「そう、それなんだよ。洗濯しても落ちなくてさ、お袋には怒られるわ、親父には変に心配されるわ、大変だったんだからな」
音楽室前に到着した。中では華麗なピアノの旋律が流れている模様である。
「この曲は、リストだね」
「えっ、この曲、『手首』って題名なの? そりゃあまた生々しい」
「違うって」
ユーリは大ボケをかましながら音楽室のドアを開けた。本日でちょうど、今年4回目の音楽の授業である。
中には、ユーリ達以外の生徒の姿はなかった。
音楽室の中に入ってまず目につくのは、黒壇のグランドピアノだ。ピアノは、入り口に向かい合うようにして置かれている。その鍵盤を鳴らしているのは、30歳くらいの超絶美形の男性。その美貌と言ったら、教師というよりも、モデルか俳優ではないかと疑ってしまいそうな程だ。
リチャード・ク○イダーマンも足元に及ばない程に麗しい姿で演奏していた男性だったが、中に入ってきたユーリと目が合うと何故か顔色を変え、演奏を中断して立ち上がった。
「これは…渋谷君に村田君。お早いですね」
「どうも〜、ギュンター先生」
「あ、先生、えーっと…」
ユーリは持ち物の中から、今週提出するプリントを探し出してギュンターに出した。
ギュンターは決して教師としての技量においても、また人間的にも悪いとはユーリは思っていない。ただ『玉にキズ』と呼ぶべき所が幾つかあった。
「はい、これ」
「あ、はい。確かに。…ああ、何と独創的で溌剌とした字なのでしょう。この流線の美しさ、力強さと言ったら…!」
ギュンターはユーリの提出したプリントを惚れ惚れとするように見つめ、何故か顔を赤らめてため息までついた。
「おれの字を美しいって…(汗)」
ギュンターはちょっと…否、かなり常人とは異なる、この美的感覚の持ち主だ。よくそれで芸術系の音大に入れたなあ、とユーリは思うが、ひょっとしたら芸大というのは、こういう人ばかり集まる所なのかもしれない。…そんなバカな。
その上、一体何をどうしたらそうなるのか知らないが、ギュンターときたら、初回の授業から何故かユーリの全てを大絶賛状態なのだ。自分の何処に芸術的要素を見いだしているのか、ユーリ本人には全く見当がつかない。
「あれ? 先生、これ、シューベルトの【魔王】の楽譜じゃないですか?」
いつの間にか移動したムラケンは、ピアノの脇のカラーボックスの上に詰まれた楽譜を眺めていた。
「懐かしいなあ、渋谷。【魔王】だよ。中学校の時の新歓を思い出すねぇ。あの時、これをBGMに使ってた」
「ああ…アレか…」
ユーリにとっては、あまり思い出したくない記憶だ。
「あの後からだよね、渋谷が『魔王』とか『陛下』とか、呼ばれるようになったの」
「お前はお前で『猊下』って呼ばれてたけどな。にしてもさあ、お前の『猊下』は廃れたのに、おれの『陛下』はまだ続いてるって、どういう事だよ?」
「それだけインパクトが強かったんだよ、きっと」
「お話の最中に失礼致ししますが…何のお話ですか?」
意外にも、ギュンターが2人の会話に興味を持った。
「ああ、中学校の時、新入生歓迎会で3年のクラスがそれぞれ出し物をやる事になったんですよ。うちのクラスは劇をやる事になって、渋谷がクジで主役の魔王役をやったんです」
「魔王って言っても…どう見ても、大岡越前と遠山の金さんと暴れん坊将軍を足して3で割ったような、妙に正義のヒーローっぽいキャラだったけど…あ、水戸黄門を忘れてた」
「そう。ちなみに僕は、渋谷演じる魔王の仲間・大賢者の役。渋谷ってば、練習からリハーサルの時までずーっと緊張しっ放しで、セリフも棒読みに近かったんですよ」
「だってあの役、すっげー恥ずかしかったんだもん。大体、劇の主役自体、初体験だったしさぁ」
「でも渋谷、思い切って恥を捨てたのか、本番では人が変わった様な演技を見せたんですよ。ゴツいべらんめぇ口調で『この正義の文字、見忘れたとは言わせねえぜ!』とか言って」
「お陰で、『渋谷有利原宿不利』の上に、更に『魔王陛下』なんてアダ名までつけられちゃって。…先生?」
ギュンターが何故か頬を赤らめて、もじもじと身を捩らせている。わざとらしい咳払いをした後で、彼はこう言った。
「その…では、私も親愛を込めて、『陛下』とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「えっ…それはちょっと…」
呼ばれて嬉しいアダ名でもないのでユーリが婉曲に断ると、ギュンターは今にも泣き出しそうな顔になった。
「そうですか…きっと、このギュンターがお嫌いなのですね…」
「嫌いとか好きとかそういう事じゃないって言うか…ああ、分かりましたよ! 呼んでいいですから」
「で、では…『陛下』」
試しに呼んでみたギュンターだったが、自分で自分の大胆さに興奮してしまったのか、次の瞬間、
「ぶひゃっ」
と、鼻血を出して後ろにのけぞった。
「うわ、先生また鼻血!? ほら、ティッシュティッシュ」
ユーリが机の上のティッシュの箱を取ってきて2、3枚その中身を取り、ギュンターの顔に当てる。その仕草がまたギュンターの興奮を煽る事に、ユーリ本人は気づいていない。ユーリの顔が近づく為に、更にギュンターの鼻血の噴出量が増す結果になる。
「い、いけましぇん陛下、そんなにお近づきになられては…」
「鼻つまんだまんまだと、何言ってるか分かんないんですけど…ああ、服についちゃう。村田、もっとティッシュ取って」
ユーリの手がギュンターの喉に偶然触れた。
その瞬間、ギュン汁が暴発。

「ぎゃああああああっ!?」

…白い鍵盤が紅く染まり、廊下にはうら若い少年の悲鳴が響き渡った。




ユーリが学校で断末魔のような悲鳴を上げている頃、コンラッドは自宅のマンションに帰宅した頃だった。
オフを利用して買ってきた日用品や食料品をしまい込み、それから掃除と洗濯にかかる。こういうきっちりとした生活スタイルが、父の影響である事は明らかだった。
溜まった新聞を閉じる為にハサミを取りに行く最中、棚に肩をぶつけ、危うく上に乗っていた写真立てを落とす所だった。それを元あった通りに、伏せて、置く。コンラッドは写真そのものを見ようとはしなかった。
電話が鳴ったので、彼はすぐに受話器を取って応対した。
「はい、もしもし。…ああ、母上。ええ、母上はお元気ですか? …まあ、そんな所です」
コンラッドは受話器を耳に当てたまま、部屋のソファに腰を下ろした。
「…いえ、大丈夫です。ご心配をおかけしましたか?…ええ…いえ、ゴールデンウィークは帰れないんです。大会があるので…」
忙しない事に、今度は玄関からけたたましい高い電子音が聞こえてきた。管理室と繋がる、マンションの内線である。
「内線が鳴ってるんです。管理室から。…はい、では」
相手が気を遣って用件を切り上げてくれたので、コンラッドは電話を切り、急いで内線の応対に出た。
「はい。…はい。そうです。…は? 俺の車で携帯が鳴ってる?」
コンラッドの携帯電話ならば、今、部屋で充電中だ。




春とはいえ、4月下旬にYシャツ姿で愛チャリをかっ飛ばしていると、冷たい風が少し身に染みた。
しかし、ギュンターの鼻血でスプラッタ状態と化した学ランを着て帰る度胸も、ユーリにはあまりない。今日もまた、制服を汚した事を母親に怒られてしまうだろう。
大通りの交差点で信号にさしかかり、ユーリは自転車を止めた。何気なく右側の道路に目を向けると、そこに止まっていた車の乗客と目が合った。プジョーを知らないユーリだったが、メルセデスくらいは知っている。
信号が青に変わり、発進したメルセデスがユーリを追い抜いていく。後部座席に乗っていた乗客が窓から外に目を向けた瞬間、ユーリと目が合った。
乗っていたのは、まさに金髪碧眼の美少年。
…ん、少女? どっちだ?…とユーリが思っている間にも、メルセデスは走り去っていく。
かと思いきや、急に道路脇にその車は停まった。
そして後部座席のドアが開き、中の美少年が降り立った。…残念ながら、美少年だった。体格はユーリと同じくらいだが、顔で大きく差がついた。その一瞬でユーリは美少年に『ウィーン少年合唱団OB』というアダ名をつけてしまった。
美少年はユーリの方をきっと睨み、見据えている。
もしかしなくても自分に用があるのだろうか…? と、ユーリは無意識に自転車のスピードを落とした。
「おい、そこのお前!」
外見を裏切らない高めの声を張り上げ、ビシッ! と美少年はユーリを指さした。
「は、はいっ!? おれ!?」
ユーリは自転車のブレーキをかけた。
「今、僕と目を合わせたな!? お陰で車を停めてしまったぞ!」
「えっ…?」
咄嗟には理解し難い苦情申し立てだった。ひょっとして、間接的に『今ガンたれやがったな、このヤロウ』とでも言いたいのだろうか。
「お前、何処の高校だ!?」
「し、眞魔高校だけど…」
反射的にユーリは答えてしまった。
「名前は何だ!?」
「し、渋谷有利原宿不利」
またもや余計な事まで言ってしまった。
「眞魔高校の、渋谷有利原宿不利だな?」
「『原宿不利』はアダ名デス…」
「よし、分かった」
美少年は1人で勝手に納得して、メルセデスに乗り、何処ぞへと走り去った。
その間はたった2、3分だけだっただろう。しかし、妙に騒がしい時間だった。
…明日からゴールデンウィーク。休み明けからしばらくの間、通学路を変えた方がいいかもしれない…と、ユーリは思ったのだった。

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この話を書いてて気づいたんですが、ギュンターって………一般的なファッションが似合わないんですね…。コスプレもどきのブランド物か、せめてハイネックぐらいしか似合わねェ…。