ディモルフォセカをくれた君(1)
コンラッドと知り合ったのはごく最近だ。
だけど、姿自体は、それよりずっと前から見かけていた。いつもグラウンドの側の道路に車を停めていたから。いつも独りで、同じ場所に、同じ車を停めていた。
本人には勿論言えないけど…率直に言って、出会いの印象は…悪かった。
4月中旬の、ある日の練習の最中の出来事だった。おれが打ったボールが思いも寄らない方向に…コンラッドの車へと、飛んでいったのだ。
ボールは高く弧を描き、残酷にも軌跡を歪める事なく、車へと速度を速めながら落下していった。その車がオープンか、せめてサンルーフだったら良かったんだけど、そうじゃなかった。ボールは運転席の窓にぶつかったように、おれには見えた。割れたかどうかは解らなかったけど、ボールが車の中に入っていったから、多分割れたんだろうと思った。
「あちゃー…渋谷、あれ、いかにも外車って感じだよ」
友人で同好会マネージャーの村田がそう言ったけれど、どんな車種なのか、おれには区別がつかない。でも、高そうには見えた。
ものすごく焦った。外車でなくても、自分の車にキズを付けられれば、大概の人は怒る。
おれは急いで謝りに走っていった。
「すいませんっ!」
走って行って気づいた。窓ガラスは開いていたので、割れていなかった。
運転席の男の人は―――――コンラッド、という名前はずっと後で知った―――――なんつーか、全てにおいておれみたいな子供とは段違いのカッコイイ人。座ったままじゃ解らないけど、足が長そー…。
さらさらした短い薄茶の髪に、銀の光彩を散らした鳶色の瞳。ぱっと目につくような派手な容貌じゃないけど、こういうタイプの方が女の人にモテるんだろう。
ただし、問題が一つ。全身から漂う暗いオーラだ。最近観た洋画の主人公みたいな、自暴自棄な雰囲気。良く言えば『ニヒル』、悪く言えば『陰気』。おれには後者のように思える。
「すいません、怪我とかしませんでしたか?」
「…別に。当たってないよ」

なんっつーか…素っ気ないつーか…く…暗すぎる。
それとも、腹が痛くて機嫌が悪いとか…?

男の人は無表情で助手席に転がったボールを拾い上げた。車の中はあまり見なかったけれど、整然としていた。無言で突き返すようにそれをおれに差し出したので、おれはそれを受け取った。そのまま左手を引っ込めるついでに、男の人は腕時計を見た。そしてキーを回し、車のエンジンをかけた。
怒っているのかどうかは解らなかったけど、おれにもう用はない様だったし、発車する車の近くは危ないから、おれはもう一言だけ、
「すいませんでしたっ!」
と謝って、グラウンドに引き返した。

そんな出会いだった。





エンジンをふかす音に混じって、まだ、1時間前のオーナーの怒声がコンラッドの耳に響いていた。今日のレースの結果は、到底彼を…否、皆を満足させ得るものではなかったからだ。これで今春は2大会続けて予選落ちになった。「『人気かお』で保っているレーサー」という陰口を思い出し、コンラッドは自嘲的に笑った。
運転中にかける色の薄いグラスは、目の保護と変装との2つの役割を果たしてくれる。それを通して太陽を見ると、今日はいやに歪んで見えた。
信号が青に変わって交差点を右折した直後、携帯電話が電子音を発した。仕方なく途中の道路脇に車を一時停車し、電話に出る。
「もしもし。…ああ、はい。…はい…さあ。さっき、出てきたので。…はい」
電話の向こうで男の笑い声が響いた。胃の底をざらりと無断で撫でられたような気分にされる。
「…そうですね」
苛立ちを隠したが、隠しきれない分は愛想のなさとなって、声色に現れてしまった。しかし電話の相手はコンラッドの微妙な心理の変化に気づかなかったらしく、また続けて電話の向こうで笑っている。
「…はい。いえ…4着以下は、正直、難しいです。あまりスピードを落とすと、気づかれてしまいますから…」
コンラッドはただひたすら、相手が早く会話を切り上げてくれる事を願いながら、話半分で電話に応対し続けた。この場にいない…それどころかこの世にも既にいない人の面影が、彼の脳裏をよぎって消えた。

…君を亡くしてから半年経った。
『まだ半年』と『もう半年』…どっちの表現が正しい?
…俺には分からない。

相手が電話を切った後、コンラッドは携帯電話の電源ボタンを粗雑に押して電話を切り、車を発進させた。車のスピードメーターは、法定速度を僅かに上回る値を示していた。



『お前さ…本当に、大丈夫なのか?』



大丈夫ではない。自分の中身が腐り落ちようとしているのが、映像を通して友人の目には見えているらしい。
コンラッドは川沿いの道路際に停車し、車から降りた。殆ど毎日来ては、思索に耽ったり昼寝をしたりしている場所だ。人通りが殆どない所が気に入っている。
河川は昨日の雨で水かさが増えていた。車の屋根に腕を預けて、ため息を漏らす。青い車体のルーフは、触ると少し生温かった。
ここに鏡があったなら、自分の目が澱んでいるのが自分自身でよく分かるだろうと思う。
…本当はまだ迷っている。進退窮まりつつある焦燥感と、はっきりと決断しかねている自分への苛立ちと、まだ引きずっている悲嘆の念とが、水底の汚泥のように重苦しく心の奥に鬱積している。それらを昇華させる手段をコンラッドは知らない。結局は、酒にも女性にも耽溺しきれなかった。
上向きに頭を後ろに巡らすと、道路下のグラウンドにぽつんと人の姿が見える。青いジャージ姿の少年が、一人でせっせと地面の水抜きをしていた。
コンラッドがそれを何となく傍観しているうち、カーラジオで天気予報が始まった。
しばらくして、コンラッドは車から離れ、グラウンドへと降りて行った。
懸命に地面の雨水を抜いていた少年だったが、その足音に気づいて立ち上がった。かがんでいたせいで腰が痛いらしく、そこに手を当てている。
短い黒髪の、明朗で快活そうな少年だった。首を傾げ、見慣れないコンラッドを見つめていた。
「…さっきラジオで言っていたんだけれど、今夜は朝まで降るそうだよ」
わざわざそんな親切心を起こした自分の行動を、コンラッドはただの気まぐれに過ぎないと思った。
「マジ!? あー…そんじゃ、明日も練習は無理か。おれの苦労って一体…」
少年は天を仰いでため息を1つついた。
「教えてくれてサンキュ。いつも、あそこに停めてる人だろ?」
明るい、さばけた物言いだった。そしてそれは、いつも初対面の人物と話す時のそれとは少し異なる新鮮な感覚を、コンラッドに与えた。新鮮さの原因がコンラッドには飲み込めなかったが、無意識的に少年との会話を繋げる質問を口にした。
「いつもここで練習している様だけど、どこの野球部?」
「ああ、違うんだ。おれ、学校の部には入ってなくて、知り合い集めて草野球チーム作って、やってるだけ」
「他のみんなは…?」
「風邪でダウンしたり模試だったり色々で、都合が合わなかったんだ。でも、明日も雨だって言うんなら、みんなに気を遣わせちゃったよなあ…」
少年はまたため息をつく。
が、すぐ表情を変えた。ころころと変わる表情はとても無邪気で、見ていて飽きない。
「そう言えばあんた、いっつもあそこに来てるけど、何やってんの?」
「何も。ちょっと考え事とか、色々」
「ふーん」
コンラッドはこの新鮮さの由来にようやく気づいた。目の前の少年は、他の人間のように、自分の職業に関連した質問をしないのだ。他の大抵の人間なら口にするセリフが、未だにこの少年の口からは発せられていない。
「君の名前は?」
「おれ? 渋谷有利。あんたは?」
「…コンラッド」
「それじゃ、やっぱり外人さんなんだ。日本語、上手だなぁ」
やはりそうだ。ユーリは自分を知らない。
「コンラッドっていくつ?」
「歳の事? 二十歳だよ」
「え゛っ?」
ユーリが何故か奇声を上げた。コンラッドが苦笑しながら、
「そんなに老けて見えるかな?」
と尋ねると、ユーリは首を横に振る。
「大体同じ年頃でも、ウチの兄貴とはエライ違い…っつーか…あんた、足長すぎ…何かスポーツとかやってんの?」
「まあ。昔は野球もやっていたけれど、今はあまり」
「野球やってたんだ。あっ、それじゃ、今は何やってんの? テニス? サッカー?」
「カーレースを」
「ああ、レーサーなんだ。…って、ええええええ!?」
大仰とさえ言える少年のリアクションは、本当に、見ていて飽きないものだった。
「一応、プロなんだけれど」
「はー…そうなんだ」
ユーリは感嘆するような台詞を口にしながら、頭の中ではスタローンの映画を思い出していた。それさえも、コンラッドにしてみれば変わった反応だった。
「おれ、そっちの業界の事はよく分からないんだけれど、チームの名前は何なの?」
「『ルッテンベルク』」
「…ああ! クラスの女子が何か騒いでたやつだな、カッコイイ選手がいるって!」
ユーリはぽんと手を叩いた。
「おれ、てっきりサッカーチームの名前かと思ってた。そうかー、カーレースのチーム名だったのか」
「騒いでた? 女子高校生でも、観る子は観るのかな」
「さあ。イケメンのレーサーがいる、って騒いでたよ。コンラッドのコトじゃないの? だってあんた、すっげーカッコイイもん」
足長すぎー。どーやって身長をそこまで伸ばしたのか、プリーズ・テル・ミー。
その時、ユーリの腹時計がぐぐーっと派手に鳴った。愛用のGショックを外している為、腕時計をしているコンラッドに時間を尋ねた。
「コンラッド、今って何時?」
「えーと…11時50分くらい。そろそろ昼か…何か食べに行こうか?」
「うん、いいよ」
「あっちの方に、確か、うどん屋があったと思うんだけれど。白い看板の」
コンラッドがある一点を指さす。
「…ああ、あっちの? あそこなら、今はもう潰れてラーメン屋になってる。この間の帰りにみんなで行ったら、結構美味かったよ」
「じゃあ、そこに行こう」
今日、初めて口を利いた仲だというのに、2人は一緒に昼食を食べに行く事に全く抵抗を感じなかった。それくらいに2人は性急に打ち解けていっていた。
ユーリは道具を片づけて制服に着替えた。コンラッドを待たせているので、黒い学ランの前合わせを急いで閉める。
「ゆっくりでいいのに」
「だって、昼時なら、ラーメン屋は混むだろ?」
服が汚れた時の着替えなどを入れたバッグを左肩にかけ、ユーリはコンラッドの後をついてグラウンドから道路へと、セメントの階段を駆け上がった。
コンラッドに言われて車の前方を迂回し、右ドアへと回る。途中で車のエンブレムが目に留まり、ユーリは内心で『青地に白いライオンだ〜』と、西武ファンならではの喜びを心中で感じながら、ドアを開けて助手席に乗り込んだ。
「あれ? コンラッド、車を運転する乗る時に眼鏡かけるんだ? サングラス」
「うん。日差しが強い時とかには、必需品だね」
ユーリの父・勝馬は夏の運転でもサングラスはしない。…眩しさを堪えて運転しているのだろうか? と、ユーリは首を傾げた。どうでもいいが、サングラスをかけたコンラッドの顔は、正月にハワイから帰国してくる芸能人のようだ。怪しさ度がアップしないのは、端正なお顔立ちの成せる業だろう。
コンラッドの左からの横顔を見たのはその時が初めてだったが、左の目の上に古い傷跡があるのにユーリは気がついた。しかし、それは取り立てて質問するような事でもないと思い、シートベルトをしながら何気なくバックミラーを見上げたが、視界に飛び込んだのは、後ろにちょこんちょこん、と飾られている、2つのあみぐるみ。白いコブタとベージュのコブタだ。
「!?」
ユーリは目を見開いて後ろを振り返った。この車とそのドライバーには、あまりにそぐわない。
コンラッドはキーを差し込んだ所だったがそんなユーリの様子から、一体どうしたのかと思い、自分も後ろを振り返る。
「? ああ、あれ? 貰い物だよ」
「も…貰い物か。びっくりした。あんたの趣味かと思ったよ。いや、あみぐるみが好きな成人男性がいてもいいけどさ。でも、可愛いコブタだな〜。彼女から?」
「違う違う、くれたのは身内。それと…」
コンラッドが何故か苦笑する。
「あれ、作った本人によるとライオンらしいんだよ。レオとライナ」
「あー、なるほど、ライオ……えええええー!?」

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車は誰が何と言おうと、フェラーリではありません(どきっぱり)。コンがイタリア車、しかもフェラーリなんて、イヤミったらしいというかキザったらしいというか…と思わずにはいられませんでしたので。ドイツ車にしようかと思ったんですが、私のココロの琴線に触れたのがフランス車・プジョーの406・クーペ。程良くスタイリッシュだと思うんですが、正直、車の美的基準ってよく分かりません。ボディカラーは「コンなら赤かな?」と思ったのですが、406の赤はちょっと暗めな色。残念。という事で、エーゲ・ブルーの車体を想像して下さい。
こんな感じで、この話は延々と管理人の恥ずかしい現代パロ妄想の発露ストーリーみたいなモノになりそうです。ココロの広い方はお付き合い下さい。