「…あのー…ヴォルフラムさん?」
ユーリは呆気に取られたような表情をしながら、ちょいちょいと傍らの婚約者を手招きする。
「何だ?」
「…これ、お前んち?」
「そうだぞ、お前が僕の家に来るのは、今日が初めてだったな。どうだ?」
「………………デカ過ぎ、としか言いようが…」
ない。もう、その一言に尽きる。
寝殿造もかくやと思われるような広大な敷地を、クラシカルな煉瓦と青銅色の塀が囲んでいる。正門の左右には監視カメラが設置されており、ヴォルフラムはその下のスイッチを押した。
『はい、どちら様でしょうか』
スイッチ上部のスピーカーから、若い男性の声が響く。何をした訳でもないのにユーリは怯んでしまった。
「僕だ」
『ヴォルフラム様でしたか、お帰りなさいませ』
門が開いた。ユーリはヴォルフラムに続いて中に足を踏み入れたが、そこで更に驚かされる。
視界の下部を満たす芝生の緑と空の青のコントラスト。その中間に、白いブロックが2つ3つ無造作に並べられているかのように、建物が数棟並んでいる。古いというか、古典的な外観の建物で、中の部屋数は十指を軽く越えるだろうと思われる。
そこまで行き着く為の道は歪みが全くなく、二車線の道路並みに幅広かった。
「こっちだ」
ヴォルフラムは右手の建物を指差してずんずん歩いた。そこまでの距離は軽く100メートルはあった。
「ユーリ、今何時か分かるか?」
「んーと…2時ちょい過ぎ」
今日は行事の関係で、午前中で授業は終わりだった。
「思ったより早く着いたな、それなら十分時間はある」
何となく楽しそうなヴォルフラムとは対照的に、ユーリはどことなく気乗りしない様子であった。
コンラッドは自分の車に片腕を預け、兄の診療所の外観を観察していた。
途端、痛みを感じて自分の額に手をやる。そろそろ医者から処方された鎮痛剤が切れる頃だった。
「コンラートではありませんか」
マスクを着用したアニシナが薬局から出てきた。マスクには赤い英字で可愛らしく彼女の名前が書かれているが、語尾につくのがハートマークではなく髑髏マークなのは、如何なものだろうか。
開放された扉の奥からは、もうもうと硫黄臭い黒煙が出てくる。刺激臭とまではいかないが、耐えるのには少々辛い臭いの煙である。
「アニシナっ…今度は一体、何を…!?」
コンラッドがむせながら尋ねた。
「環境とお肌にやさしい画期的な蚊取り線香を作ったのですが、材料の配合に問題があったようで」
「つまり…失敗?」
「まあ、そういう事ですね」
そう言ってアニシナは外に置いてある、大きな扇風機のような物を作動させた。すると、黒煙がみるみるうちにそれに吸い込まれていく。どうやら空気清浄器の一種の様だ。
実験道具を背負って我が道を行っている彼女だが、自分の実験によってご近所に迷惑をかける事のないよう気をつけているのだ。
「グウェンダルを待っているのですか?」
「ああ…」
「何処へ行くのですか?」
「母上の所だよ」
「そうですか…残念です。方角によっては買って来るよう頼もうかと思いましたのに」
「何を?」
「ラム肉とマジックテープです。急遽必要になったので」
「…」
それらはそんじょそこらのコンビニやスーパーでは買えないだろう。
それに…その2つを使って、彼女は一体何をするつもりなのだろうか…。
その時、グウェンダルが出てきた。久しぶりに彼は白衣を脱いで背広に着替えている。ネクタイは締めていない。
グウェンダルは元々すぐ下の弟ほどには着こなしが上手ではないので、どこか野暮ったい。が、持ち前の長身がそれをカバーしていた。
「アニシナ、ちょうど良かった。私は今から少し外出してくる。すぐ戻るつもりだが、グレタに留守を預けてある。お前も時折でいいから、様子を見てやってくれないか」
「ええ、構いませんよ。ですがグウェンダル、何故コンラートの車で行くのですか? 自分の車で行けばいいでしょう」
コンラッドにしてみれば、どの道母親の実家に用事があったから全く構わないのだが。
「そもそも貴方は私が改造して以来、結局、一度もあの車に乗らないままですね。何故なのですか? 車内にあみぐるみを飾るスペースがもっと欲しいのですか?」
「いや、それは十分なのだが…あれはどう見ても違法改造だろう。そもそも、私は車を改造していい等と言った覚えは……」
話の途中でありながら、アニシナは既に2人の前から消えていた。
「…アニシナはどうした」
「車を出しに行くとか何とか言って、薬局の裏に行きましたけど」
「…行くぞ」
グウェンダルはくるりと踵を返した。アニシナが出てくる前に逃げてしまわなくてはならない。
「あの黒いセダン、アニシナに改造されちゃったんですね」
グウェンダルが沈黙でコンラッドの言葉を肯定する。
「具体的にどうなったんですか?」
「…どうやったのかは定かではないが、オープンカーになった」
危うくコンラッドは笑い出す所であった。
「しかもアレコレと妙な機能を付けられた」
「へえ…ところで、そのボンドカーは何処に置いてあるんです? 家の周りにはなかったと思いましたが」
「アニシナの家の倉庫だ」
グウェンダルはコンラッドの車のドアをあけて、助手席に乗った。
「…言っておくが、ボンドカーと言うよりは、ガジェットカーと言った方が正しいぞ」
万が一次兄が変な興味を示さないように、釘を刺すグウェンダル。
「…」
コンラッドがキーを持ったまま、何か言いたげな顔で自分の事を見ているのに、グウェンダルは気づいた。
「どうした」
「いいえ、何でもありませんよ」
『あのアニメ、見てたんですか?』というツッコミを、結局コンラッドは口にしなかった。
母親の実家にはすぐに到着した。
車を停めて降り、屋敷へと向かう途中、コンラッドが額に手を当てる。
「…痛むのか」
グウェンダルに尋ねられ、コンラッドが笑う。
「鎮痛剤が切れる頃ですからね。でも大した事はありません」
出迎えの使用人が扉を開ける。挨拶に応えて中に入ると、これまた出迎えに出てきた執事とメイド達が頭を下げて挨拶を述べた。
「母上とヴォルフラムは戻っているか?」
「ツェリ様はまだお仕事に出ておられます。ヴォルフラム様は先程、ご学友を連れてお帰りになられました」
6人いる執事の内、次席に属する執事が返答した。
「学友? 高校のか」
「はい」
その時、2階からドッタンバッタンという激しい物音が聞こえた。人の話し声もする。話し声というより、怒鳴り声だ。
何事かと、1階の者達は天井を見上げ、そして周囲と顔を見合わせる。
「…分かった」
騒がしい下の弟を叱るべく、グウェンダルは上へと向かう。
「叔父上が帰られたら知らせてくれ。家の何処かにいるから」
コンラッドは執事にそう頼むと、グウェンダルの後をついていく。
ヴォルフラムの部屋へと近づくにつれ、ヴォルフラムその人の怒声がはっきりと聞こえるようになってくる。激しい物音も止まないままだった。扉の向こうで部屋の中がさぞかしめちゃくちゃになっているのではないだろうかと、グウェンダルもコンラッドも考える。
あまりにも物音が大きいものだから、おそらくノックしても中には聞こえないだろうと考え、グウェンダルは両開きの扉の左半分を開けて姿を見せた。
「騒がしいぞヴォルフラム! 一体何をして…い……」
る、と言う前に、グウェンダルの舌が凍り付いた。次に、表情が固まる。
兄の後ろからではよく見えない所もあったので、コンラッドは右半分の扉を自分で開け、中を覗いた。
意外にも部屋の家具調度は無事であった。椅子が一つ倒れているが、それだけである。
ただしベッドはひどかった。シーツがしわだらけで、しかも半分めくれ上がってしまっている。その上に鎮座していた筈の枕は落下していた。
で、ヴォルフラムはそのベッドの上に座っていた。母親譲りの色をした髪も着衣も乱れている。
そして手には、何故か白いワイシャツを握っていた。
「…あ、兄上?」
突然ドアが開け放たれた上、突然の兄達の出現。ヴォルフラムは驚いた。
「…お前は一体、何をしている?」
2人の兄には、末の弟が一体何をして騒いでいたのか、まるで想像がつかない光景であった。
「っ、たー…」
ベッドの物陰、グウェンダル達からは見えない所から、床に打ち付けた頭をさすりつつむくっと起き上がって姿を現したのは、ユーリだった。
ユーリがヴォルフラムの部屋にいる事自体は、何の問題もない事だ。
大問題なのはユーリの格好であった。
……上半身裸だったのである。
………。
「ん?…えっ、あれ、コンラッド!? それにグウェンダルも、何で!?」
ユーリは自分の格好の事も忘れて、2人を交互に見る。彼が寝台に手をついて床に膝をついて立ったので、制服のズボンのベルトが外されかけていて、しかも半ば開いているのが判る。
「…何でって…ここは俺たちの母親の実家ですからね」
コンラッドがにっこりとユーリに笑いかけたが、その微笑はどこか黒かった。
それからベッドの上で呆然としているヴォルフラムを見る。
「ヴォルフ。いくら何でも、無理強いするのはどうかと俺は思うんだけれどな」
コンラッドのその台詞にユーリとヴォルフラムの年少ペアは首を傾げたが、グウェンダルは驚愕していた。グウェンダルにしか、意味が通じなかったのだ。まだ純な長兄は、自分の目の前で弟達が展開しているシーンがどういう意味を持つのかなど、さっぱり気づいていなかったらしい。
が、そんな事はコンラッドにとってはどうでも良かった。
ヴォルフラムの、自分より小さい手に握られている白いシャツ。おそらくユーリの着ていた物だ。
相手が自分の弟でなければ、一秒でも早くその手から奪い取ってしまいたいと思う。
この状況を目の当たりにして冷静でいられる自分を奇特だと思う一方で、その冷静さはすぐにも壊れる程度のものでしかない事も、コンラッドは自覚していた。
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ディモルフォセカをくれた君(18)
007を知らない方より、Mr.ガジェットを知らない方の方が多いでしょうね…多分。