ディモルフォセカをくれた君(17)
渋谷勝利が最初に目を覚ましたのは、弟が朝っぱらからドタバタと階段を駆け下りていく足音を聞いた時であった。
何なんだまた野球の練習か? と思いながら、まだ尾を引いている睡眠欲に身を委ねて寝返りをうつ。
次に目を覚ましたのは部屋のエアコンがタイマーに従って作動した時で、時刻は8時半であった。

…腹減った。

昨夜は早めに休んだ方なので、これ以上眠りたいとは身体は訴えてこない。例え休日であったとしても。
今朝はこのまま寝床の中でゴロゴロとするよりは、むしろ起きてしまって、サイトの更新でもしたい気分だった。


「あらしょーちゃん、おはよう。今日は早いのね」
リビングに顔を出した長男の目に映ったのは、キッチンで何かを調理している母と、のんびりと新聞を読みふけっている父の姿。それと、座敷犬2匹。
「おはよう…」
勝利の声はまだ寝惚けているかのような感じを与えるものだった。
「ゆーちゃんは?」
「ゆーちゃんはお友達と映画に行くんだって、妙に気合い入れて出かけていったわよ」
「あー、それであいつ、昨日の夜、新聞見てた訳か」
勝利はキッチンに入って水をもらい、昨夜の暑さで乾いた喉を潤す。
「…はあ〜……」
大仰な嘆息をつく勝馬。
「…親父、何かあったのか?」
勝利は美子ママの方に尋ねた。
「ウマちゃんも今日、ゆーちゃんを連れて映画を見に行きたかったみたいなのよ。でも、ゆーちゃんがお友達と行っちゃったでしょ? それでちょっとヘコんでるの」
「なら、おふくろと行ってくればいいじゃん。今日は買い物に行くんだろ?」
「そう、だからママもそう言ったんだけど、何を観るかで意見が分かれちゃって」
そう言って、美子は少女のようにぷうと頬を膨らませた。
「しょーちゃんは韓流ホラーと邦画のファンタジーの、どっちが面白そうだと思う?」
「…」
…どっちも観ずにサスペンス物にしたい、というのが、勝利の本心であった。



美子は朝から1人でこう考えていた。
今日、下の息子はデートに行ったのではないかと。
もしユーリ本人がそれを聞いたら、激しく慌てふためいた事だろう。まさしくその通りであったからだ。
ただし、その相手は美子ママが乙女チックに想像するような可愛らしさや可憐さ等の要素とはまるで無縁な部類の、しかも男であったのだが。
映画館の入っているビルの入り口には、左右にショーウィンドウがある。ガラスの奥でブランド服を着た白いぬいぐるみが並んでいる。が、今はその前に佇んでいる青年が、道行く人が投げかける視線をぬいぐるみから尽く奪っている状態だった。
見られる事には慣れているのでどうという事もないが、ピットでファンの女性からサインを求められる時のように、愛想を振りまく意欲はない。
今日の自分は、笑顔1つをとっても、ユーリのものでいたいから。
「コンラッド」
ユーリが走ってきた。
「ごめん、ま、待ったよな?」
緊張のあまり、一瞬、道が分からなくなってしまった…とは、ユーリは恥ずかしくて言えなかった。
「待つ時間も楽しいよ? それに十分時間はあるから」
「うん…」
ユーリの表情はこう言っていた。…何か照れるなあ、と。
冷房の効いたビルの中に入って、エスカレーターで上の階まで上がる。その間に、コンラッドがユーリの髪に手を伸ばした。
「な、何」
「貴方の髪に何かついてるように見えたんだけれど、気のせいだったかな。それにしても…」
と、コンラッドがユーリの髪から顔へと視線を移す。
「そんなに照れなくても」
「だって…」
「だって?」
顔をうっすら赤くしていたユーリだったが、次の瞬間、妙な表情になった。
「ユーリ?」
「あ、うん、何でもない」
ユーリは驚いたのだ。隣の、下の階へと向かうエスカレーターの客の1人と目が合ったが為に。
それはアーダルベルトだった。コンラッドの部屋にあった写真中の人物。コンラッドとどういう知り合いなのかまでは知らないが、彼は彼でユーリと目が合うと一瞬表情を硬直させていた。おそらくコンラッドの背中を偶然にも見掛けて喫驚したのだろう。
コンラッドの方はというと、ユーリの事しか見ていないが為に、アーダルベルトの存在などには全く気づいていなかった。



映画は期待に沿った、面白いものであった。
ビルの本屋に寄って、嬉々とした気分でユーリは野球雑誌をめくる。たまに立ち読みする程度で、購読してはいない。コンラッドは何やら地図が置いてある場所に行ってしまったので、側にはいなかった。
ふと、左目が痛くなった。
…こする。
しばらくそうやっていたが、どうしても治らない。痛みがしつこく目を刺す。めったにない事だった。
睫でも入ったのだろうか?
ユーリは雑誌を戻すと、コンラッドの所に行って、
「コンラッド、おれ、ちょっとトイレ行って目洗ってくるからっ」
と告げて、急ぎ足に書店を出た。
トイレは同階の階段の側に位置している。エスカレーターもエレベーターもあるので、階段は殆ど利用される事がない。人がいるとしたらそれはトイレの利用者か、さもなくば踊り場の端にある休憩用の椅子で休む客だけだ。だがユーリが行った時は休憩所は無人で、静かな空気が漂っていた。
中に入って手洗い場の水道をひねって水を出し、すぐさま目を洗う。そうすると次第に痛みはとれたので、ペーパータオルで目を拭くと、ユーリは男子トイレの外へ出た。
そこで彼は思いっきり人にぶつかってしまった。
「ぶっ!」
ユーリの方からぶつかった形だったのだが、相手に体格差で負けていたが為に、後ろによろめいた。何かつかまる物があったなら、床に尻餅をつく事はなかっただろう。
「すいませんっ」
反射的に謝ってばっと立ち上がり、顔を上げたユーリだったが…何と、今彼がぶつかった相手はアーダルベルトだった。
「あっ…」
約2時間半振りである。お互いの顔が記憶に新しすぎた。
「お前はさっき、コンラートと一緒にいた…」
ああやっぱり知り合いなんだな、やっぱりさっきコンラッドの方を見てたんだなぁ、と、ユーリは思った。
そのアーダルベルトの視線が床に動く。
「…?」
彼の視線は床に転がる青い石に注がれていた。
「あ」
アーダルベルトとぶつかった際にポケットから落としてしまった事に、ユーリは初めて気がついた。
かがんで拾い上げようとする前に、アーダルベルトがそれを拾う。
「これは…ジュリアの」
アーダルベルトの眼中から、ユーリの姿は一時消えていた。彼の双眸は今は手の中にある、青い石に向いていた。その輝きに似た色の眼光が揺れて、ユーリをきつく凝視する。
「…え?」
その視線にユーリがたじろいだのはほんの一瞬の事だった。しかし、胸ぐらに伸びたアーダルベルトの手を避ける暇もなかった。床につま先が届くか届かないかの高さまで軽々と締め上げられ、ユーリの息が詰まる。
「何故、お前がこれを持っている!?」





5分は経過した。
なのに、ユーリは書店に戻って来ていない事を、コンラッドは不審に感じた。
何の前触れもなく不安に襲われて、地図を戻して書店を出ようとする。
その時、自分の視界を右から左へと、アーダルベルトの姿が横切った。通行人が避けて通るような凄まじい形相をしていた。彼が怒り肩で歩くと体格がますます大きく見えた。
アーダルベルトはこちらに目もくれず去って行った。彼を直接この目で見掛けるのは久しぶりだった。だがしばらく会っていなかったとはいえ、進んで声をかけたい知り合いではないので、コンラッドはすぐに彼の背中を目で追う事をやめ、ユーリの所に向かった。
トイレの近くには休憩用の椅子と、小さいコインロッカーが設置されている。
ユーリはそこの椅子の1つに腰を下ろしていた。そして、その隣に思いがけない人物が座っていた。
ギーゼラである。ユーリの首を押さえる手をそっと取って、何やら首筋を覗き込んでいる。その親密な雰囲気に一瞬だけ嫉妬心が湧いたが、恋人の表情の冴えない事にコンラッドはすぐ気づいた。
「ユーリ」
呼びかけに反応して2人は顔を上げた。ついで、ギーゼラがぺこりと頭を下げる。
「具合でも悪くなった?」
「えー……とぉ、そのー…」
ユーリは何故か言い淀んで真っ白い床をぐるぐると見つめている。コンラッドはギーゼラの顔を見たが、彼女の表情も何処か暗い。
「何かあったのか?」
ギーゼラに質問すると、言いにくそうではあったが、彼女は口を開いた。
「…アーダルベルトが」
「えっ? あいつが?」
一瞬コンラッドは目を丸くした。そしてユーリとギーゼラを見て、漠然とした懸念を抱く。
「まさかアーダルベルトが何かしたのか?」
ギーゼラにそう尋ねて、コンラッドはユーリの方を見る。
「うん、まあ…胸ぐら掴まれたけど」
何故アーダルベルトがユーリにそんな事をしたのか、コンラッドには思いあたる節はない。初対面の筈の2人がどうしてそういう事になったのか、理由は解らない。だがそれをユーリに尋ねるより先に、アーダルベルトの去った方向へとコンラッドは足を向けていた。
「コ、コンラッド、いいって!」
慌ててユーリは手を伸ばし、コンラッドの服の裾を握った。間一髪という所だった。
振り向いたコンラッドの我に返ったような表情を見て、彼が今一瞬冷静さを欠いた事を知る。
「何ともないから。たまたま通りがかったギーゼラさんが助けてくれたしさ。まあ男としては情けないけど」
そこでユーリが一旦むせる。
「ユーリ」
「平気っ…少し首絞められただけ」
「大した事はないと思いますが…安静にして下さいね」
ギーゼラがそう言った。
コンラッドは椅子に腰を下ろすと、ユーリの首筋に手を伸ばした。
「他に怪我は?」
「ないよ」
「良かった…貴方が無事で良かった」
その言葉にはコンラッドの本心が過剰な程に出ていた。何故『過剰』かと言うと、目にも声にも彼のユーリへの感情があからさまに表れていて、側のギーゼラがそれに気付かずにいられなかったからだ。
ユーリはユーリでコンラッドの顔を真っ向から見つめていたが、はたと自分たちを見つめるギーゼラの視線に気付いた。
「ああああ、あの、こ、これは!」
あらまあ、とでも言いたげな顔をしていた彼女だったが、赤面するユーリにすぐに笑顔を向ける。
「どうぞ、私の事はお気になさらず」

出来るかーっ!!
と言うより、その笑顔は何なんだ、ギーゼラさーんっ!

恥ずかしさのあまり、ユーリはコンラッドの腕を掴んでその場から逃げ出してしまったのだった。




帰り道の時間はお互い静かだった。
どちらからも気まずい沈黙を破る事のないまま、車の窓の外で左右の風景が通り過ぎて行く。
どんな切り出し方でユーリにアーダルベルトの事を説明すれば良いのか、コンラッドは悩んだ。
ユーリによると、自分がユーリにあげたペンダントが原因で、アーダルベルトはユーリに手を差したらしい。
自分が根本的な原因である以上、ユーリに黙っているべきではないと思いながら、言葉に迷って何も言えない。自分の中に、未だに過去の残骸が残っている事は否定出来ない。
同時に、ユーリが自分に何も尋ねて来ないのは何故なのか、とも思った。
ユーリは正面を向いたまま、一言も口をきこうとはしない。その横顔からユーリの機嫌を推測する事はとても難しかったが、彼は聡い。アーダルベルトと自分の関係に何の疑問も抱いていない筈がない。
人生で今日程失敗したと思うデートはした事がなかった。自己嫌悪で頭が痛い。今日はユーリに喜んでもらえる日にするつもりであったし、そうであるべきであったのだが。
赤信号にぶつかって、車が一時停止する。
「…」
コンラッドはステアリングに手を乗せたまま、右を向いて口を開いた。
「ユーリ、自宅まで送る?それとも駅まで…」
言い掛けて、言葉が途切れた。
ユーリは瞼を閉じて呼吸を繰り返していた。規則的に上下する胸は静穏としていて、ユーリがよく眠っている事を示していた。
その寝顔にコンラッドは思いがけず胸を噛まれ、ユーリの中にこの世で一番高い場所を見いだしている事を強く自覚した。

もう、自分の中で微笑んでいる彼女に対して、笑顔を返せるようになっている。

視界の端で信号が青緑色に光り出す。
車が発進した後のスピードは、赤信号に引っ掛かる前のそれより少しだけ遅くなっていた。

次へ
前へ
戻る