ディモルフォセカをくれた君(16)
その日が近づくにつれて、逆に待ち遠しかったのに。
学校が終わった後でユーリが立ち寄った時、コンラッドはまだ自宅に帰っていなかった。
もう、とっくに飛行機が到着している時間の筈なのだが。
「…」
どうしようか。ユーリは一旦マンションの壁に背を預け、手首の時計をぼんやりと眺めながら考えた。
別に、今日どうしてもコンラッドに会わなくてはならない訳ではない。
ただ、会えるのならば会いたい。そう思って来た。
しかし、コンラッドの部屋の前で待っているというのも、近所の目が気になるので、どうかと思う。
それに、ここまで来て思った。…多分、コンラッドは疲れているだろうと。
ユーリが諦めてエレベーター前へと戻ると、ちょうどエレベーターが到着した所で、チンという音と共にドアが両側に開く。
そこから降りたのは、タグ付きのボストンバッグを肩から提げたコンラッドだった。
「ユーリ…」
コンラッドの方が、反応が速かった。
「えっと…今帰って来たとこ?」
コンラッドが頷く。
「空港を出て、母上の所に立ち寄ってから帰って来たんだけれど」
「それじゃギリギリのタイミングだったんだ。おれ、気が短いもんだから、諦めて帰ろうとした所だった」
しばらくぶりに会った筈なのに、そのような雰囲気の見られない会話になるのが不思議だった。
荷物を持って部屋へと歩いていくコンラッドの前を、ユーリは歩いて行く。
十数日振りに開けられたドアを、コンラッドの後をついてユーリはくぐり、部屋へと上がった。
コンラッドの背中を見ながら、ほっとしたような気持ちを抱いている自分に気づく。結構彼に会いたがっていた筈なのに、こうして実際に顔を合わせると、姿を目にしただけで十分に満足出来た。
コンラッドは床にバッグを下ろすと、
「ただいま」
と、笑顔で口にして、ユーリを抱き締めた。
「…おかえり、どうだった?」
ユーリも抱き返す。背中をぽんぽんと叩いた。
「貴方に会いたかった」
そういう事を訊いているのではないのだが、敢えてユーリは何も言わない。
「おれに、会いたかった?」
「とってもね」
ユーリの中に、自分がほっとする場所を見ていた。
「…会いたかった…」
口づけながら、二度も『会いたかった』と口にするのを、自分でもおかしな事だとコンラッドは思った。自分で思っていた以上に、ユーリの顔を見たいと思っていたらしかった。
セカンドキスが長かったのは、そんな喜びのせいだろう。だが2人の背丈の差のせいで、体勢的にあまり長く続かなかった。
「…そうだ」
コンラッドがユーリの額に自分の額を当てた。
「ヴォルフから聞いたよ」
「えっ…な、何が?」
ユーリはぎくっとした。ミスコンの事だとしたら最悪だ。あまりに恥ずかしすぎるので、コンラッドには知られたくなかったのだ。話すつもりもなかったのに、ヴォルフラムの口からバレてしまったのだろうか。
「今月の29日はユーリの誕生日だって?」
「…あ」
何だそんな事か、と、思わずユーリは言いそうになった。
「そっか…おれの誕生日、考えてみればもうすぐなんだ」
この年齢になっても、母親はきっちりケーキを焼いて、律儀に歳の数だけキャンドルを差す。今年は何のケーキにするのかまだ聞いていないが、去年はチーズケーキだった。
「もっと早く聞いておくんだった」
「へ?…あ、仕事入ってるんなら別にいいよ。誕生日なんて、結構どうでもいいしさ」
そんな訳にはいかない。
先程母親の元に顔を出した時、ついでに弟の顔も見てきた。散々文句を言われたのは言うまでもないが、ヴォルフラムは心底楽しそうにユーリの誕生日について話し、自分がその為の贈り物を用意している事まで自慢げに話した。
「何か欲しい物とかない?」
「って言われても…全然、全く」
ユーリが困ったように微笑んだ。
「本当にいいんだよ、コンラッド。あんたがそうして気にしてくれるだけで嬉しい」
その笑顔や言葉がどうしようもなく可愛くて、コンラッドはまたユーリを抱き締めた。
「…ん?」
ユーリが妙な声を上げた。
「コンラッド……何か、磯くさい? と言うか…おサカナくさい…?」
それは父親が釣り上げたサメを剥製にする作業を手伝ってきたせいだ。服は替えたのだが、それでも臭いがついていたのだろう。
「着替えてくるよ」
コンラッドは苦笑して寝室に向かう。何故かその背中に不意にときめいたものだから、ユーリはイカンイカンと自分に言い聞かせながら、リビングに目を向けた。
テレビの隣の、低い棚。その上に置き時計があって、隣にサボテン。その隣の写真立ては、またもや伏せられている。
一瞬、また倒れたのかな?と、ユーリは思った。だが、すぐに別の可能性に気づいた。
「ユーリ」
「っ、何?」
いきなりコンラッドに呼ばれ、ユーリは自分でも解る程にびくっとしてしまった。
だが、コンラッドにはその姿が見えていなかった為、動揺を気づかれる事はなかった。
「ひょっとして、7月生まれな事と、『ユーリ』っていう名前には、何か関連性でも?」
「さあ、知らない。何かあんの?」
「いや、ふっと、ドイツ語で7月は『Juliユーリ』だって事を思い出して」
「そうなんだ」
6月の『Juni』と聞き違いやすいので、『Julei』と言った方が良いのだが。
「コンラッド、ドイツ語分かるの?」
「何だったらドイツ語で口喧嘩も出来るよ。俺の父親はあっちの生まれだし、小さい頃はベルリンに住んでいたから」
今でこそ英語が出来るが、父親と共にボストンに移住した後は、言語の習得に一苦労だった。
最も、その後一時的に日本に移って母親の元で生活した当初の方が、言語の問題も含めて更に大変だったが。
「ふうん…」
自分の名前の由来について今度両親に聞いてみようか、と、ユーリは思った。
着替えてきたコンラッドは一旦洗面所に行った後、キッチンでコーヒーを淹れ始めた。
「って事は、おれの名前って、ドイツに行けば日本で言う『弥生』とか『皐月』とかいう名前と同類ってコトか」
「でも、俺の親戚の奥さん、4月生まれでもないのに『エイプリル』って名前だけれど」
「そりゃあまたややこしい」
ローテーブルにカップを置いて、コンラッドはユーリの隣に座り、何となく浮かない表情を見せた。
「…どうしたんだよコンラッド? あ、ひょっとしてまだ誕生日の事、気にしてる?」
「ものすっごく」
ユーリの誕生日を、ヴォルフラムが知っていて自分が知らなかった。その上、自分はその日に何も出来ない。弟はプレゼントまで用意していると言うのに。
「…あ、じゃあさ、コンラッド。今週の休み、空いてる?」
コンラッドが頷いた。
「それならさ、一緒に映画、観に行こうよ。どうしても観たいのがあってさ、その先行上映があるんだ。村田は約束があるみたいだし、ヴォルフは興味なさそうだったから1人で行こうと思ってたんだけど、2人で行こうよ、なっ?」
映画の内容が何であれ、コンラッドにとっては、ユーリの誘いを断る理由にはならない。
「いいよ、行こう」
「やった!」

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