境界線のその先に(1)
帝国暦646年、デインとクリミアの戦争が終結した。
この戦いでクリミア王女エリンシアを助け、軍の勝利に大きく貢献し、デイン国王を打ち倒した救国の英雄     アイク。
その武勇と数々の功績を称えられ、今やクリミアで名を知らぬ者のないだろう青年は……現在、クリミアの田舎の農道を、上半身肌着一枚という格好で、根菜の山と詰まった麻袋を両腕に抱えて歩いていた。
「おお、団長さん。こんにちは」
「よう、アイク。これから帰りか」
畑の畝を盛っている最中の村人が、森に罠を仕掛けてきた帰りの村人が、土まみれの顔を上げて笑いながらアイクに挨拶をする。その度アイクも挨拶を返し、そして……アイクの隣を歩くセネリオもまたそれに合わせて、、ぺこりと頭を下げていた。
「セネリオ、重くないか」
「いえ、大丈夫です」
アイクが持っているのは、大きい野菜の詰まった麻袋が二袋。対してセネリオが懐に抱えているのは、彼の顔の大きさほどしかない塩の袋だ。しかしそんなものでも、抱えながらそれなりの距離を歩くとなるとセネリオには結構な負担であったし、アイクの方もそれを察していた。
セネリオが買い出しについて行くようになったのは、ごく最近……新女王の周辺が落ち着き、アイクが爵位を返上して傭兵稼業に戻ってからの事である。
『いっぺん一緒に来てみて、どうしても嫌ならやめればいい』。最初にアイクがそう言ってから、セネリオが彼と共に買い出しに来るのは、今日で七回目だ。行き帰りに村人の姿を見かける度、セネリオは内心鬱な気分になったが、彼が村人たちにどんなに無愛想な反応しか返さなくても、アイクはいつも何も言わなかった。
傭兵団の砦の塀を越えて中に入ると、空の桶を手に提げたミストとばっちり目が合う。この二年半で、まだ少女だった彼女も次第に女らしさを帯びてきていた。
だが、あられもない格好で帰ってきた兄を見た途端、
「もう、お兄ちゃん! そんな格好で外を出歩かないでって、いつも言ってるでしょ!」
と、顔を真っ赤にして怒る姿は、まだまだ幼く見える。
「しかも……ちょっ……お兄ちゃん、汗くさいよ……」
「すまん。訓練が終わった後にオスカーから買い出しを頼まれたもんで、面倒だからそのままの格好で行ったんだ」
「もう……それ終わったら、ちゃんとお夕飯の前には着替えてよね。ああ……いいや、やっぱり今すぐ水で洗ってきちゃうから、それ脱いで」
「ん」
アイクは麻袋をとんと地面に下ろすと、上に着ていた服を脱いだ。
グレイル傭兵団の現団長は、この僅かな年月で驚くほど逞しくなった。鍛錬の成果というだけでなく、歳を重ねるごとに少年の時期から脱却していった。そんな彼の後ろで黙して立っているセネリオは、アイクとは異なり、二年経とうとも少年のままだ。来年にはもう、ヨファ辺りに身長を越されているかもしれない。
アイクとセネリオが台所に顔を出すと、オスカーが夕食の支度をしていた。
「戻ったぞ、オスカー」
「ああ、お帰りアイク、セネリオ。買い物ご苦労様」
「こいつは、どこに置けばいい」
するとオスカーは、アイクの持つ麻袋から十個ほど芋を順次取り出していった後、
「今日食べるのはこれだけだから、後は倉に置いといてくれ」
「解った」
「あ、セネリオの塩はこっちだよ」
「どうぞ」
差し出されたオスカーの手に袋を渡すと、セネリオはくるりと踵を返してアイクを追った。
月日を追う毎に、アイクとの間に次第に広がる差異は埋めようがなく、かといって追いつけるものでもないとセネリオは知っている。だからセネリオは、その背を追って歩き続けていた。いずれ見えなくなるだろう背中であっても、見ることが出来る限りは見続けようと思った。
……その背中が没して消える前に、自分が去らざるを得なくなるとしても。



今回の依頼は、グレイル傭兵団にとっては実に簡単な仕事だった。
戦後の混乱で、この周辺のような田舎はあまり治安が安定しない。グレイル傭兵団の砦の周辺ならば、傭兵団の名が広く知られているが為に、昼夜安心して女子供が出歩ける程平和だ。だが、砦の周辺から少し遠くなると、デイン兵崩れの山賊などが村を荒らすことがある。今日の仕事は、そういう雑魚を片付けるだけのたやすい仕事だった。
だが、その日のおかしな出来事は、仕事を終えて砦に戻ってから起こった。
夕方、アイクたちが砦に帰ると、留守番をしていた筈のミストとワユが、母屋の外で何やら落ち着かない様子で待っていたのである。二人は母屋の方ををちらちら見ながら何か小声で話していたが、他の団員が帰ってきたのを見ると、ほっとしたような表情になった。
「あっ……お兄ちゃん、みんな、お帰り……」
「どうした?」
アイクが訊くと、二人は少し黙って逡巡した。しかしやがて、ワユの方が先に口を開いた。
「……みんなが出かけたすぐ後に、何かこう、変なお客さんが来たんだよ」
「今もいるのか?」
「うん。キルロイさんが応対してる」
そこへ馬を繋いだティアマトがやってきて、アイクの横からこう尋ねた。
「変って、具体的にどう変なの?」
「荒っぽいとか、危なっかしいとか、そういう感じじゃないんだ。でも何か、こう……目がぎらぎらしてて……ぎらぎらって言うよりは、爛々としてるっていう方が正しいかな……ね、ミスト?」
「うん……それで、あの目でぎょろっと見られると、なんか……怖くて。だから、わたしたちは外で待ってたの……キルロイさんは何で平気なんだろ……性格の違いかなあ……?」
「そのお客は、用件は何だって言ってたの? 仕事の依頼? それともまた、アイクに勝負を挑みに来た口かしら」
「ううん、セネリオに会いたいんだって」
ミストがそう答えると、団員達の視線がセネリオに集中した。
「僕に……?」
「うん……グレイル傭兵団の軍師に会いたい、って。どう考えても、セネリオのことでしょ?」
「まあ、そうでしょうが……心当たりがありません」
未だかつて、セネリオに来客があった例は一度もない。手紙が届いた事すらない。しかしそれは、セネリオという人物の性格を考慮すれば十分あり得ることであったから、団員の誰もが全く不審に思わなかった。だからこそ、そんな彼に突然の来客があるのは、きわめて不審であった。
「どこかの貴族が引き抜きに来たんじゃないかな。クリミアの王宮で働いてた時もあったよね、そういう事が」
ヨファの言う通り、王宮でアイク達がクリミア復興に勤しんでいる最中、貴族の中にはセネリオの頭脳を求めた者が少なくはなかった。無論セネリオ自身はそれらの誘いを全て断ってきたし、彼の断り方があまり無碍で冷淡だったものだから、『子供の分際で』と怒りを覚えた貴族すらいた……と聞いている。
全ての誘いを蹴って、アイクや傭兵団の皆と共に王宮を去った。その行動が、自分の最後にして最大の意思表示だとセネリオは思っていた。しかしまだ、諦めのつかない貴族がいたとでもいうのだろうか。
「貴族のお誘い……どう……かなあ……」
しかしヨファの意見に、ミストもワユも疑念があるようだった。ミストはともかく、明朗快活を絵に描いたようなワユが、こうもはっきりしない態度を取るとなると、よほど奇妙な客なのだろう。
「とりあえず、会ってみないことには始まらんさ」
そう言うと、アイクは自ら率先してドアを開け、母屋に足を踏み入れた。その後ろをセネリオ、ミスト、ティアマト……と団員らが続いて入っていく。
「キルロイ、戻ったぞ。客が来てるそうだが……」
と、言いながら食卓のある部屋を覗くと、湯気の立つ茶の置かれたテーブルの席にキルロイと、見知らぬ男が座っていた。
「あっ、お帰りみんな。セネリオに、お客さんが来ているんだけれど……」
キルロイの左手に座っている客を一目見て、アイクは、妹たちがこの客と同じ部屋に居たがらなかった心情を理解した。
不気味な客であった。骨に皮を張り付けたような体つきで、後頭部を残してはげ上がった真っ白い頭には、ところどころ青白い血管が浮き出ている。
その痩せこけて背がひん曲がった体に、暗色の分厚いローブを着込んでいるのだが……そのローブからはぷうんと妙な匂いが漂っていた。耐え難い匂いではないが、普通の生活で染みつくような匂いではない。それだけに、この匂いは尚更この男の不気味さを際立たせていた。
しかし何より気になるのは、その目つきだ。ガラス玉の様な生気のない目が、ぎょろりと動いてこちらを見るその目つきは、ただただ異様であった。キルロイがこの客と何時間も向き合い続けられたのは、彼が底抜けにお人好しであるからだろう……誰もがそう思ったし、自分だったらとてもそんな事は出来ないとも思った。
「セネリオ」
アイクは後ろからセネリオを前に出した。このローブの男が何者かはさておき、『グレイル傭兵団の軍師』に用があるのなら、それはセネリオ以外に他ならないのだから。
ローブの男はセネリオを見た。すると彼は、ガラス玉の目を飛び出さんばかりに見開いて、
「おお…おおおお…!」
と、よく分からない呻き声を口から漏らすと、テーブルの上に乗ったコップが揺れるのにも構わず勢いよく立ち上がり、セネリオに素早く歩み寄った。
「……何ですか」
「間違いない、この印、この印は……」
ローブの男が手を伸ばしてきたので、セネリオはさっと身を引いた。
印。額の印のことだとセネリオは思った。そう思うと同時に、これ以上皆のいる前でこの男に喋らせてはいけないとも思った。だが。
「あなたは……」
「間違いない、【印付き】の証! ようやく見つけたぞ!」
その台詞を耳にした瞬間、セネリオの頭は真っ白になった。

……ここにいたくないここにいられないいてはいけない、

踵を返し、団員の間をかき分けて自分の部屋に飛び込む。魔道書を紐で括り、防寒用の厚手のマントをひったくるように掴んで外に出た。途中、団員の誰かが止めようとした手を振り払ったような気がするが、よく思い出せない。
だが、外に出た途端肩を掴まれ、セネリオが振り向くと、そこにアイクがいた。
「セネリオ」
「……アイク」
「落ち着け」
「……僕は、……」
肩で息をする。アイクに落ち着けと言われて、しかし、呼吸がままならない。混乱して言いたい事が入り交じり、セネリオは言葉を失った。無理に口を開けば、後で思い出すと死んでしまいたくなるようなひどい言葉を、よりにもよって、アイクにぶつけてしまう気がした。
「セネリオ、大丈夫だ」
「……っ……」
「…………」
「…………………………………………なぜ」

なぜ。
僕はただ、少しの間でいいからここにいたかった。
ごく限られた時間だという事、そんな事はちゃんと解っていたし、覚悟もしていた。
……なのに、何故その時間を今、こんなにも理不尽に取り上げられなくてはいけないんだ……。

「取り上げさせたりしない。ここにいろ。お前はうちの傭兵団の一員だ。出て行っていいなんて、団長の俺が許しちゃいない」
「……あなたはそう言ってくれるんだ。あなただから、そう言ってくれる……」
「……」
「ですが、あなたは団長だ……他の団員たちが異を唱えれば、団長として、多数の意見を採らなくちゃいけないんです」
「みんなは、まだ何も言ってないだろう」
「嫌だと言うに決まってるんだ!」
皆、同じだ。正体を知るや、穢らわしい合いの子と罵り、物を投げ、殴りつけ、あるいは無視し、ひたすらに嫌悪する。それが正しいかどうかなど関係ない。アイクが傭兵団の長であるなら、傭兵団の結束の為、それを乱す存在は排斥するべきなのだ。
「セネリオ。お前を忌み嫌ってきた奴らは、団員のみんなじゃない。お前と俺とが違う性格、違う物の見方をするように、団員のみんなだって、お前を忌み嫌ってきた奴等とは違うんだ」
「…それでも……【印付き】を嫌う点は同じかもしれない」
「そうだ。だが、それは訊いてみなくちゃ分からんだろう」
……セネリオはしばらく黙っていたが、やがて小さい声で、
「分かりました」
と答えた。アイクが手をぱっと離すと、セネリオは引っ掴んだマントを高く掲げ、引きずっていた裾についた砂埃を手で払う。
「入りましょう、中に」
「ああ」
「……アイク」
「なんだ?」
「もし……皆の何人かが、僕がここにいる事に、傭兵業を続ける事に反対したら……僕がその反対意見に逆らってここに残る事が、団の為にならないとあなたが判断したら……僕を……切り捨てて、ください。貴方の、大切な傭兵団の為に」
「……セネリオ。俺は、大勢の為に一人を犠牲にはしない。傭兵団は、親父から受け継いだ大事なものだ……しかしだからって、団を守る為に団員を絶対に見捨てたりはしない」
「それでも、いいんです」
「セネリオ」
「いいんです、僕は」
思えば、ここにいる意味など最初からなかった。
ここに何故来たのか、何故来ようと思ったのか……その目的はもう、果たされていたのだから。


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…というわけで、
「もしもセネリオがもしもデイン王子として名乗りを上げていたら」
というのがテーマの話です。
身内との談話で生まれた話なんですが、何かもう使い古されていそうなネタですね…。