…何もない世界の中にいるように、何も、見えなかった。
手を振ってみる。実際に自分の手が持ち上がっているのかどうかすら、解らない。まだ何処かが灼けている。
…自分は何処にいるのだろう。天国というやつだろうか。天国というのは何も見えない所なのか?
「…じっとしていろ…」
知らない声が耳に入り、ジストは一瞬警戒して身体をすくませた。
「…そのまま寝ていろ」
だが、相手の声から殺意や敵意は感じられなかった。これは彼の傭兵の経験がもたらす、勘によるものだ。おそらく現在自分が置かれている状況に危険はないだろう。しかし。
「ここは、何処なんだ?」
「…私の家だ」
「…あんたが…俺を運んで、介抱してくれたのか?」
「…ああ」
何となく愛想のない声だったが、冷淡には思えなかった。男の声で、まだ若い。
自分が天国にいない事を確信し、ジストは安堵した。商売柄いつ死んでもおかしくないが、それと生に未練を持つ事とは別だ。大体これが天国なるものだと思うには、少々現実的過ぎている。
「…山賊か?」
「いや、違う。魔物にやられた。この辺りで魔物が出るって話は聞いた事がなかったんで、少し油断しちまったみたいだ」
「…」
魔物の円陣を切り崩した所で、異様に巨大なエルダバールによって崖から落下した。よくもまあ生きていたなあ、と、自分でも不思議に思うような所から。
「…左腕は動かすな」
「あー、ちょっとやっちまったか。…そうだ。俺の、俺の剣は無事か?」
戦いで生活の糧を得る傭兵にとって、自分の武器は命だ。もし誰かに持ち去られていたら…。
「これか」
声の主は、ジストの手に剣の柄を握らせた。間違いない。手慣れてしっくりとくるこの感触だ。
「ああ…これだ。無事だったのか、良かった。ありがとうな」
「…」
ふと、ジストは自分の目が見えない事に気づいた。包帯か何かが巻かれているようだ。
「俺の目は…どうなったんだ? 見えなくなってんのか?」
「いや。雪目になりかけていた」
「雪目?何でだ、そんな心当たりはないんだが…どのくらいで治りそうだ?」
「…最低でも約一月だ。腕の怪我が治るまではもっと時間がかかるだろう…」
しばらく目が見えないという事は、しばらく仕事を取れない事になる。逆にこれが仕事の最中だったら…と考えると、ある種の幸運だったと言うべきか。
「長いな…でも、この目、見えるようにはなるんだろう?腕も治るだろう?」
「…ああ」
「そうか、それ聞いて安心したぜ。ありがとう。あんた、名前は?」
「…サレフだ」
「サレフか。俺はジストだ」
「…ジスト、少し外すが、いいか?」
「ああ」
バタン、とドアが閉じ、サレフが出ていった。
雪目になるような心当たりはない。自分が歩いていたのは山地であって雪原ではない。…心当たりがあるとすれば、魔物の発した光を直に受けた事ぐらいだ。強い光だった。それで雪目になりかけたのかもしれない。…軽傷でよかった。
今日は魔道研究の材料を買いに外出したのだが、ついでに食料も買ってきておいて良かった。
一応家の周りを回り、魔物除けの魔法を張る。竜人のおかげでこの辺りは辺境ながらも平和に生活出来る環境であったのだが、どうやら再び魔物が増えてきたようだ。
サレフは独り暮らしだ。故郷のポカラの里は山の上にある。彼が魔法の研究をする上で『外』への外出は必須だ。だからこうして山を降りた所に家を持っていた。
客は殆どない。里の知り合いが時折尋ねてくるが、『外』の者を入れるのは考えてみれば初めてだ。それも、よりにもよって、彼。
…記憶を辿る。今は、あの日の太陽の照り具合まではっきり思い出せる。
何年か前、ちょうど今日のように用事で外に出たサレフは、それとは知らずに戦場の近くを通過してしまった。もし知っていたら迂回したのに、急いで森を突っ切ったのが間違いだった。
森でサレフは怪我をした兵士に治癒を求められた。その男はサレフの風体から、一目で彼が魔道士だと分かったのだろう。だがその兵士は既に手遅れであり、治癒魔法も間に合わないような瀕死の状態だった。
そして、その兵士を追いかけてやってきた兵士がいた。いや、その男は1人で隊列を離れてやってきたし、武装が簡素だったので、傭兵だったのだと思う。
すでにその兵士が死んでいる事や、自分がただの通りすがりの旅人である事を説明する暇はなかった。サレフはその傭兵に魔法を使った。海や戦場といった、死とぎりぎりの場所に身を置く者に限って、妙に迷信深い。だからこちらが魔道士であるというだけで、逃げ出すような場合が多かった。
だが、その傭兵は炎をちらつかされたぐらいでは怯まなかった。
躊躇しなかった。人を殺めるのは初めてではなかった。自分は原理主義者ではなかったし、迷う余裕も無かった。ただ、腸の何処かが冷たいと感じた。その傭兵を手にかけた瞬間も同じだった。
寒さを風のせいにして踵を返したが、その直後、
『ザッパー!』
もう1人、傭兵らしき若い男が駆けてくるのが見えた。血に濡れた剣を手に下げていたのがはっきり目に映った。サレフはその声に反応して振り向いたが、しかしすぐさま踵を返して戦場付近から逃げ出した。だが、背中を見せる瞬間にはっきり相手と目が合った。
視線は明らかな憎悪を叩き付けてきた。
そして…その目がここにある。
サレフは包帯越しにジストの目をそっと横に撫でた。もし視線が人を現実に殺すものならば、こうして出会う事は無かっただろう。
倒れている彼を発見し、過去の記憶を思い出した瞬間、つくづく因果が巡るものである事を思い知った。忘れはしない。その者の死を悼む者の目前で人を殺したと思い知った時、ようやく気づいた。自分が、己の内に眠る残酷さに慣れてしまっていたと。
…この目が開いた時が、私が死ぬ時か。
「…サレフ?」
突然ジストが口をきいたのでサレフは驚いて手を引っ込めた。
「…起きていたのか」
「ああ、今…起きた」
「…迎えに来てくれるような人間はいるか?」
「いやー、いないな。傭兵暮らしだからな、俺は」
実に明朗な話し方。彼は自分が友人を殺した相手だとは気づいていないだろう。あの時は声を聞かせなかったから。
「…だったらここで養生すればいい」
「え? そりゃ…いいのか?」
ジストは驚いているようだった。当然だろう。彼にとってサレフは初対面の相手なのだ。その相手が会ったばかりの自分を看病してくれるという申し出に、驚いてしまうのも無理はない。
「…私は構わない」
「それは…そうか、なら、世話になる事にする。手数をかけるだろうが、よろしく頼むぜ」
「…分かった」
そう言い残し、サレフは出ていった。ジストと話していると、どうしても罪悪感に駆られる。
「で、そのお前の故郷ってのは、何処なんだ?」
「…ポカラの里、という所だ」
「ポカラ…?聞いた事ねえな、地図は結構記憶していたつもりなんだが」
「地図にはない場所だ」
包帯を替えたりしているる最中、ジストは良くサレフに話しかけてきた。当たり障りなく答えていったつもりだが、何故かいつの間にやらポカラの里の事までが話題になっていた。
「しかし、何でまたここに?一人は、人によっては気楽かもしれないが、大変じゃないか?」
「…ここに住む方が何かと都合がいい」
「職業。そういや、お前の職業って何なんだ?」
先程からジストはこうやって自分に色々質問を投げかけてくる。話し相手が他にいないのだから当然なのだが、職業を聞かれるとやはりぎくっと身を震わせた。
「…魔道の研究をしている」
「魔道…魔道士なのか?」
ジストの口調が僅かに変わった。『魔道士』という言葉が、何か心に引っかかるのだろうか。それは友を殺した魔道士の男を思い出させるのだろうか。
「そうだ」
「…」
彼の目が見えないのをいい事に、真実を隠している。『目が見えるようになったら判る事だから』というのは、真実を口に出して告白出来ない弱い自分の放つ単なる言い訳だ。
「なあ、魔道士って事は、やっぱり、同じ魔道士の知り合いがいるのか?」
「いない…事もない。里に魔道士が何人かいる」
「…そうか」
「それが、何か…」
「何でもねえよ」
本当にジストの友を殺した事に罪悪感を感じているならば、すぐそれを告白すべきだ。だが、それを言えばジストは自分を殺そうとするだろう。あの時と同じ憎悪を見せて。
そして…また、同じ事の繰り返しだ。ジストを殺せば彼の死を悲しむ者が自分を恨む。
その環から逃れたいと思う事自体が、おこがましいのか。
やがて、ジストの手当が終わった。新しい包帯がもう無い。
「…少し、外へ出てくる。何処で魔物を見た?」
「ここから少し南東に行った、山の中腹だが…おい、何しに行くんだ一体?」
「…」
「大丈夫なのか?」
「すぐ戻る」
椅子から立ち上がって窓を閉めた。
「魔物除けの魔法があるから、ここには危険はない」
「…なあ、サレフ。1つ聞くがいいか?」
「…」
「見えないから予想になるんだが、お前…無愛想だろう」
「…そうかもしれない」
愛想のない事、無口な事。祖母だけでなく周囲から良く指摘されてきた欠点だ。そう言われても、どうしたらいいのか分からない。これが自分だ。愛想を求められても困る。
「やっぱりな、そうじゃないかと思ったんだ。もしかして俺がこうして話しかけるのはうるさいか?」
「いや」
うるさくはない。ただ話をしていると、何もかも本当の事を告げてしまいたい露悪的な気分にさせられる事があるだけだ。それはジストのせいではない。
「そうか、良かった。気をつけて行けよ」
買い出しに行く前の日の夜、ジストがサレフにこう尋ねてきた。
「…なあ、ここから手紙って出せるか?」
「出せない事もないが…」
「そうか。傭兵団の奴らに、『生きてる』って、連絡しておかねえとまずいと思ってな。今頃俺が行方不明だの失踪したのという話があいつらの耳に入っているだろうし」
「…私が代筆しよう」
「ああ。悪いな、あれこれ手間かけさせて」
「構わない」
償いのつもりはない。ただ、ジストの事が嫌いではなかったからだ。彼といると自然と喋る回数が増えている事に気づいた。
夕食の後に適当な紙を持ってきて、ジストが話す内容を要約して記していく。作業はすぐ終わり、宛名を書いて閉じる作業に入った。
「…お前も珍しい奴だな。普通、傭兵なんて家に入れたがらないモンじゃないか?」
「…命は尊ぶものではあるが、選ぶものではない」
そこに倒れていたから助けた。それだけの事だった。
殺す時もそうだ。今まで手にかけた命は、全て殺めようとしてきたから殺しただけの事だ。選んではいない。不必要な殺生はしてきていない。
紙を折った際に誤って指を切ってしまったが大した傷ではない。気にも留めなかった。
「…そうか。なるほどな。…考えてみればそうだな」
「…どうした」
「いやな…色々あって、魔道士ってやつはどうしても嫌な事を思い出させるやつだったんだが、それとは無関係に、俺はお前の事をを気に入ってる。そういう事さ」
「…」
小さく空気を吐くような音がジストの耳に届いた。ひょっとして、今、サレフが笑ったのではないか?そう思ったのだが。
「扉を閉めてくる。これは明日出してくるが」
「ああ、よろしくな」
問いただして確かめるまでには至らなかった。
左腕と足の傷が完治して以来、ジストは意識的に毎日剣を持つようにしていた。でないと身体がなまり、傭兵復帰が困難になってしまう。練習相手がいないのが悩みだったが、食事やら何やら散々サレフに世話になっておいて、まさかその相手まで頼めない。
練習を終え、壁に手をついてサレフの研究室まで歩いていく。しばらく暮らす内、このこぢんまりとした家の間取りを覚えた。今は壁に手さえついて方向感覚を失わなければ、1人で歩き回る事が出来る。
サレフが研究室にいる気配がした。ここはあまり入らない。彼によるとせまい部屋に物が結構置いてあるのだそうだ。
「サレフ」
サレフは無愛想で無口で堅くて、ついでに鈍だ。そして心根が優しい。それは彼の行動の1つ1つで分かる。そもそも、無愛想且つ無口な人間と話すのは慣れている事だし。
「ジスト、君宛の手紙が来ている」
「お、来たか。悪いが読んでくれないか?」
サレフが内容を代弁する。ジストの無事を確認して喜んでいる様子が受け取れた。出来れば直接会いに行きたいが、仕事をすっぽかす訳にもいかないので無理らしい。それは当然だ。一度請け負った契約を途中で切れば、依頼人はおろか、ギルドからの信用も落ちる。
「返事は、後にするから。その時はまた代筆してくれ」
「…ああ」
手紙を畳む音。それから、色々妙な音がする。一体魔法の研究というのは何をするのだろうか。自分はそちらの方はさっぱりなので、想像もつかなかった。
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You won't leave my mind.(1)
…ふと、これ書いていて思った事。…一体何をして食っていっているんだ、サレフさんって…。