天馬と飛竜が静かに砂漠に降り立つ。砂が静かに舞い上がり、エイリークは一瞬目を閉じて砂埃を避けようとした。
「みんな無事?」
懐かしい声、懐かしい顔。エイリークの肩から、緊張が僅かに抜けた。
天馬から降り立ったターナは、鎧を身に着け槍を携えた戦装束であった。フレリアに残っている筈の彼女がそんな格好でこの戦場にいる事について、真っ先に疑問を口にしたのがヒーニアスであった。
「ターナ! 何故お前がここにいる!?」
ヒーニアスは自分の怪我そっちのけで、天馬から降り立った妹にずかずかと詰め寄った。彼の服の背中部分にはじわりじわりと血の色が染みてきており、痛くないのだろうか、と、かえって見ている周りの方が心配にさせられる程である。
「わたし、お兄様達が発たれた後、やっぱりエフラムを追いかけて来たの」
「父上がご了承なされたのか?」
そんな筈ないだろう、と言いたげなヒーニアスの表情に、ターナは言葉を詰まらせる。彼女が黙って国を出てきたのだと言う事が、ヒーニアスにもエイリークにも容易に読み取れた。
「ターナ…お前というやつは…」
「え、えーと…そ、そんな事より、お兄さまは大丈夫? エイリークも怪我はない?」
「私は大丈夫よ、でも…」
ヒーニアスの怪我は大丈夫とは言えない。例え本人が立って歩いている状態であっても。
と、ターナと共に来た竜騎士の青年が、何かの袋を飛竜から下ろし、それを持って駆け寄ってきた。金色の髪に浅黒い肌、そして飛竜という取り合わせは、エイリークの脳裏にグラドのグレン将軍を蘇らせた。
「姫」
「ああ、そうだったわね」
ターナは砂の上にその袋を下ろしてもらうと、袋の口を開いた。その中からまず出てきたのは、矢が入った矢筒だった。
「エフラムから、お兄さまに」
「エフラムが?」
「きっと矢が足りなくなってるだろうから、って。他に入ってるのは…水ね、はいエイリーク」
エイリークはターナに差し出された水筒を受け取った。だが、半日以上水を一滴も飲んでいないのにも関わらず、彼女はまるで喉の渇きを意識していなかった。
「…ターナ、傷薬や治癒の杖はない?」
「傷薬はあるけど杖はないわ…やっぱり、誰か怪我をしたの?」
「王子が…」
「えっ、お兄さま、お怪我をなさってるの?」
ターナが慌てて兄に駆け寄った。が、ヒーニアスは大した怪我ではないと強がりを言ってみせる。
だが背中に回ったターナは、そこに紅い染みが出来ている事に驚いていた。戦場を何度も経験したヒーニアスにしてみれば、悲鳴をあげる程の怪我ではない。彼はその点で、如何に自分の妹がまだ世間知らずであるかを、改めて知る事になった。
「姫、グラド兵だ」
竜騎士の青年はそう言いながら、自分の竜にいち速く乗った。
皆が顔を上げれば、砂漠を、こちらへと向かって走る歩兵の姿が幾つも見えた。
「俺が片づけてくる。姫はここに」
「ええ。気をつけてね、クーガー」
クーガーという青年が飛竜に乗って飛び立った後、サレフがターナの持ってきた傷薬を用いて、ヒーニアスの怪我の応急処置を始めた。
「傷薬では応急処置しか出来ない。あまり動かない方がいいだろう。出来れば弓を引くのも控えた方がいい」
サレフは真っ青な顔色に反して挙止動作はしっかりと機敏であったが、かえって彼の疲労の程度がどれ程のものなのか、推し量らずにはいられない。
「あー…王子、傷自体は浅いけど、広いな。確かに弓は引かない方が良さそうだな。これは単なる切り傷じゃすまないぜ」
「…」
不機嫌な表情で押し黙るヒーニアスは汗びっしょりだった。暑さのせいだけでなく、ようやく背中の痛みをはっきりと感じ始めてきたという事なのだろうか。
兄の事を二人に任せ、ターナは一人で空を見上げながら立ちつくしているエイリークに話しかけた。
「大丈夫、エイリーク?」
「ええ…ねえ、ターナ。あの竜騎士の方は、一騎で大丈夫なの?」
「クーガーならあの位、心配ないわ。ヴァネッサもすぐに来る筈だし、それに、あっちの方向は本隊に近いもの」
「そう…」
エイリークの返事はぼんやりとしていた。日差しと戦いの疲労のせいだろうとターナは判断し、エイリークに手渡した水を飲むように勧める。だが、彼女はそれをたった一口飲んだきりだった。
「…ターナ、ありがとう。助けに来てくれて」
「いいのよ。だってわたしたち、友達でしょう? エフラムは今、南の方でまだ戦闘を展開してるわ。エイリーク達には、自分達が来るまで待っていて欲しいって」
「そう…」
…自分は生き残ったのだろうか?
その筈なのに、まだ、その自覚が湧かない。まだ、死神に足を掬われかねない場所に立っているような気分だ。
このまま兄と合流するまで何もないのだろうか。ただ待っているだけで兄と会えるのだろうか。
これで、生き残ったと言えるのだろうか?
「…エイリーク?」
「…ねえ、ターナ。私達は助かったの?」
乾いた、疲弊した声でエイリークはそう呟いた。
…エフラムに会いたい。
兄の前なら、きっと、自分を現実に引き戻せる。
戦闘終了後の野営は、ジャハナ王城外の砦で行われる事になった。オアシスから少々離れているので不便ではあったが、全焼した城には、例え地下室に入る事は出来ても、宿営地を敷く事など到底出来なかった。
エイリーク達はエフラム達の本隊と合流してすぐに手当を受けたが、エフラムがゆっくりと妹の顔を見たのは、諸々の作業や話し合いが一段落ついた後だった。
今日明日の野営に関する話し合い等を済ませると、エフラムはとっととヒーニアスを救護テントに追いやった。
今夜はもう、これからの行軍における話し合いをする気はなかった。今日の戦に関する処理すらまだ済んでいないのだから。
最もヒーニアスは早め早めの協議を望んでいた風だったが、背中の傷を塞いだばかりの人間とでは、並んで落ち着いた話し合いが出来る筈もない。もう少し休んでからだと言い張ったエフラムが結局勝利し、ヒーニアスは救護テントのラーチェルの手に委ねられた。
まだ、エフラムはエイリークとゆっくり話をしていなかった。戦闘の際に少し顔を合わせて言葉を交わしたきりである。憔悴の色も露わな中、きつく剣を握っていた妹の手が、エフラムの印象に強く残っていた。
「エフラム様、失礼致します」
グラドの闇魔法使い、ノールだった。彼が軍に同行するようになって日が浅く、物静かで目立たないなりをしているが、その身に纏う雰囲気は明らかに魔道に通じた者の物で、元々魔道士の少ないこの軍においては、彼の顔を覚えている者は意外に多い。
「もう、お話し合いの方は?」
「終わった。手を診に来てくれたのか?」
ノールが頷く。
エフラムが左手の革手袋を取ると、その下には包帯を巻いた手が現れた。
ノールも、そしてエフラム自身も僅かに眉を潜めてその手を凝視する。今朝、行軍前に塞いだ筈の傷が僅かに開いて、血が巻き付けられた白い布に滲んでいた。
ノールはその手の治療を始めた。エフラムが何処でどのようにこの怪我をしたのかは、エフラム自身、ノール、そしてゼトとデュッセルしか知らない事である。
「やはり、治りがあまりよろしくないですね…一応解毒は致しましたし、こまめに治療を行っているので、だんだん塞がって来ている様ですが…」
「今日の戦闘でも出来るだけ左手は使わない様にしたんだがな。やっぱり、闇魔法の傷だからか?」
「闇魔法で与える傷全てが、この様になる訳ではありませんが…おそらく、そうでしょう」
「そうか」
革手袋をしてしまえば、この傷は誰にも見えない。自分にも。
ただ、それでも時折走る痛みは隠せない。
「ノール、あのリオンの事だが……」
エフラムが言いかけたその時、天幕が翻り、今はこの話を最も聞かれたくない存在…妹の青い髪の色が見えた。
エフラムは即座に口を噤もうとして、しかし突然の妹の登場に動揺し、自分でもそれを隠蔽しようとして妙な表情になってしまったのを自覚した。
「兄上…あの、よろしいですか?」
「ああ、すぐ終わる」
エイリークがテントの中に入ってきて、ノールが兄の手の治療をする様を眺めていた。怪我をしたその左手と、見るからに闇魔法使いのような風体のこの青年を見ている。
どうしてそんな所を怪我したのだとか、どうしてナターシャやラーチェルに任せないのかとか、ノールは一体何者なのだとか…そんな質問が今にも彼女の口から出るのではないか。考えすぎだと理性では解っていたが、エフラムは不安だった。…正直言って、まだ、リオンの事を妹にどう話したら良いのか解らないのだ。
治療を終えるとノールは出て行き、テントには二人が残された。
革手袋をはめ直すエフラムに、エイリークが問いかける。
「大丈夫ですか、兄上?」
「ああ、大した事ないさ」
左の革手袋がやや新しい事に、彼女は気づかなかった様であった。
誰が自分にこんな傷をつけたのか。それを知ったらエイリークは戸惑い、傷つき、そして悩む。
今はただ、休ませてやりたい。どうせ一時しか休めないのだろうから。
エイリークを傷付けうる可能性のあるあらゆる物から彼女を守ってやれたなら…そう思う自分の気持ちが、兄としてのものなのか、そうではないのか、エフラムには区別が付かない事があった。今も時々戸惑う。彼女の幸せを何より願いながら、彼女を一人で歩かせる事…そして誰かに託してしまう事がなかなか受け入れられない。
何にも悩む事なく二人でいられた昔をふっと懐かしく思うが、思い出は必ず現実に彼を立ち返らせる。
「お前の方は、怪我はいいのか?」
「はい、ラーチェルが診てくれました」
頬の傷は治癒の杖で塞がれていた。もう、近づいてじっと見ればほんの僅かにそのような痕跡が見られる程度だ。脚の怪我も塞いで貰ったが、こちらは一晩出来るだけ安静にするように、との話だった。
「だったら出歩くなよ。俺の方から行こうかと思っていたのに」
「すみません。でも、兄上はお忙しいかと思って…」
様子を見に行ってくれたゼトと、怪我をおして顔を見せに来たヒーニアスの話を総合すると、エイリークは怪我は大した事はないらしいが、ただ、かなり疲労しているという話だった。
こうして顔を合わせると、ああ成る程、と思う。明らかに顔色が良くない。
「とりあえずお前のテントに戻ろう。戻ってもう休め。どうせ主な話し合いは明日なんだから」
エフラムが立って手を差し出すと、エイリークはその手を取った。
手を握る。
その瞬間、忽然と湧いた涙でエイリークの視界が歪んだ。緩んだ心のたがは一気に外れて、彼女の頬を濡らしていく。
手でその涙を拭おうとしても、拭いきれなかった。
涙で濡れた頬を擦る感触が、何処か、返り血を拭う感触に似ていると感じる。
結局、自分はエフラムの様には強くなれなかった。多くの者が無惨に死んだ。あの、たった一時の事で。
くらくらする頭を兄に預けて、エイリークは一層泣いた。
控えめな泣き声の奥の慟哭が漠然とエフラムにも伝わった。
…こんな事はこれきりにしなくてはならない。
しゃくり上げる妹の頭をただ抱いて立ちつくす。
一度天幕に入ろうとしたゼトが引き返した事に気づいたのは、当の本人のみであった。
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I promise, eternally.(14)
2007/02/11:加筆修正。