仕事を辞めると行ってシュテルンビルトに戻ったお父さんは、そのままいつまで経ってもこっちに戻ってこなかった。
仕事は、辞めたいからといってすぐに辞められるものじゃないって事くらいは、私にも解る。ご挨拶とか引き継ぎとか、よく知らないけれど、仕事を辞める時にはそういう事をしなくてはいけないらしい。それにこっちに戻ってくるなら、引っ越しの準備だってある筈だ。
けれど、電話越しのお父さんの口からは、具体的にいつ頃帰れるのかという言葉が全く出てこなかった。「必ず帰るから」「もうすぐ帰るから」、そんな、曖昧な言葉ばっかり。
そんなお父さんのいい加減な態度に、私はとうとう我慢出来なくなって、電話口で怒鳴ってしまった。
……お父さんは、私のことなんてどうだっていいんでしょ。
……本当は、こっちに戻ってきたくないんでしょ。
……そっちに、付き合ってる女の人でもいるんじゃないの。
最後の言葉は、お父さんにとってはいきなりだったかもしれないけれど、私がずっと前から考えていた事だった。
うちの近所に一人、やたらと人の世話をするのが好きなおばさんがいた。その人はお見合い話の紹介をするのが好きで、うちのお父さんにも何度か再婚を勧めていた。全部おばあちゃんがお断りしてたけど。
ある日、うちで近所のおばさん達が集まっておしゃべりしている時に、そのおばさんがまたしてもお見合いの話を始めた。おばさんにしてみれば全然悪気はなかったんだろうけど、正直ちょっとしつこい。隠れて立ち聞きしていた私がそう思っていると、他のおばさんが横から口を出してきた。お父さんだって都会に住んでるんだから、周りが色々世話を焼かなくたって、いい人との出会いがあるんじゃないか……って。
おばさん達にとっては、単なる冷やかしだったのかもしれない。けど、私にはとてもリアルな言葉に聞こえた。ずっと帰ってこないお父さん。何も話してくれないお父さん。本当は、私には言えないことがあるんじゃないか。帰ってこられない理由があるんじゃないか。
電話で喧嘩してから数日経った頃、電話をかけてきたお父さんは白状した。
まず、仕事自体は必ず辞めるということ。仕事を続けられない体になってしまったから、仕方ないんだって。
けれど、シュテルンビルトを離れるのは難しいとお父さんは言った。理由を訊くと、ある人の傍についていてあげたいからだと言った。
……その人って、お父さんの恋人ってこと?
私がそう訊くと、お父さんは少ししてから、「そうだ」と答えた。
何だか、一気に体が冷たくなった。
あの時。その時。あの日。この日。お父さんに約束を破られた時の出来事を、次から次へと思い出す。具体的なところはあんまり覚えていないけど、その時々感じていた気持ちだけは、ずっと私の中で溜まっていたんだ。
……お父さんは、私を放って、その人と一緒にいたの?
「違う、そうじゃなくってだな、その人は……お父さんと同じ職場の人なんだよ」
同じ仕事をしていて仲良くなった、という事らしい。言い訳になってないと思ったけど、それよりも私は、もっと具体的な事を聞きかった。いつから付き合っているのか。どんな人なのか。私やお母さんの事は知っているのか。
まさか一緒に住んでるんじゃないよね、と私が訊くと、お父さんは違うと否定した。本当かどうか怪しかったので念を押してみると、相手の人はゴールドステージに住んでいると言う。そう言うくらいなら嘘じゃなさそうだと私は思った。お父さんはいっつも嘘ばかりつくけれど、もうこうなったら嘘はつかせない。
けれど、私が相手の人について質問しても、お父さんはああ、とかその、とか言って口ごもるばかりで、何一つ話してくれようとしなかった。何も説明しないままで済むと思っているの? 私が子供だから? 着ていたシャツをぎゅうっと握りしめて、お父さんの話に耐えていたけれど、何分経ってもはっきりしないお父さんの態度に我慢出来なくなった私は、様子見に来たおばあちゃんに電話を押しつけて家を飛び出した。
日が暮れる頃まで、近所をぶらぶらして時間を潰した。
家に帰るとおばあちゃんはとっくに電話を切って、夕食の支度を始めていた。おばあちゃんに言われるままお風呂に入って、上がってから夕飯を食べる。それが終わると、おばあちゃんは私に話を始めた。
「楓。あんたのお父さんの仕事だけどね。実はお父さん、ヒーローやってんのよ。あの、テレビに出る仕事」
私は反射的にテレビの方を向いた。今は明日の天気予報が流れているだけだけど、このテレビで頻繁に観ているHERO TV。お父さんがあれに出ているヒーローだと、おばあちゃんが言う。ちょっと信じられない話だったけど、そう言われると、お父さんがこっちに全然来なかった理由も納得出来た。
どのヒーローなのかと私が訊くと、ワイルドタイガーだとおばあちゃんが答える。そっか、ワイルドタイガーの能力ってハンドレッドパワーだっけ。うちのお父さんと同じだなあ、としか思ってなかったから、全然気づかなかった。
おばあちゃんによると、お父さんが自分の仕事について私に秘密にしていたのは、私に心配させたくなかったからだと言う。それに、ヒーローの身内だという事が知られれば、犯罪者からヒーローの家族に仕返しされたりする事もあるからだと。何でそれをおばあちゃんが説明しているのかと思ったけど、簡単に想像ついた。私に説明したくないとごねるお父さんを、おばあちゃんが叱る様子が。
「それでねえ、楓。お父さんに今、付き合ってる人がいるって事は聞いたね?」
……うん、聞いた。でも、どこの誰かは知らない。お父さん、何にも話してくれなかったから。
「それなんだけどねえ……お父さんとコンビ組んでる、バーナビーさんっているでしょ」
……うん、知ってる。
私の命の恩人。すごく格好良くて大好きで、雑誌で見る度切り抜いて取って置いてる。
あ、そういえば、お父さんワイルドタイガーなんだよね。ごめん、お父さんが写ってるところは取って置いてなかった。全然興味なかったから。
でも、どうしておばあちゃんはそんな話をするの。
「あの人なんだって、お父さんと付き合ってるの」
その夜、私は部屋に貼っていたバーナビーさんのポスターを剥がした。
ぜんっぜん解らない。解りたくない。
でも、おばあちゃんに言っても仕方ない。おばあちゃんだってすごく混乱していたんだから。
おばあちゃんはお父さんと電話した後、伯父さんに電話して相談したらしい。伯父さんもやっぱりすごく驚いてたそうだ。つまり、おばあちゃんも伯父さんも、全然知らなかったということ。
次の日、私が今までの人生で一番最悪な気持ちで学校に行った日。学校が終わって帰ってくると、お父さんから電話がかかってきた。
何よりも真っ先に、どういう事なの、と私は言った。お父さんはそれだけでもう、私がおばあちゃんの口から話を聞かされたと解ったようだった。
「ごめん、楓。うまく説明出来ない」
何なの、それ。そうじゃないよ、そうじゃなくてお父さん、私は。
……お父さん、バーナビーさんと全然、歳違うじゃん。
「うん」
……バーナビーさんって、男の人でしょ。
「うん。あの、ごめんな。楓には、やっぱりショックだったよな」
なんか、子供だと思って馬鹿にしてるような気がした。お父さんの言っている事は解る。同じ性別の人を好きになる人がいるって事くらい、知ってる。
学校で使っている道徳の教科書には色々な話が載っていて、その中に、そういう人の話があった。その話に出てきたのは女の人だったけど、男の人にもそういう人がいるんだっていう事が、後ろの方に少し説明されていた。そういう人も世の中にいるんだって事を認めてあげよう。そんな話だったんだけど、実際にはなかなかそうはいかないみたいだ。
……お父さんって、男の人が好きなの? なら、何でお母さんと結婚したの?
「いや、そうじゃなくて……お母さんの事は大好きだったよ、本当だ」
……わかんない。お母さんの事が好きだったのに、今はバーナビーさんの事が好きなの? なら、私の事はどうでもいいの?
「楓! そんな事ないぞ、お父さん、楓の事が一番大事だと思ってる」
……なら、こっちに戻ってきてよ!! 私の事が一番大事だって言うんなら、何で帰ってきてくれないの。結局お父さんは、私の事なんてどうでもいいんじゃないの!?
私が電話をしてる間、庭で畑仕事をしていた筈のおばあちゃんが、いつの間にか縁側から上がってきていた。私の様子を見に来たんだと思う。
私は受話器を握りしめて泣いた。すごく大きい声を上げて泣いた。私の傍におばあちゃんが寄ってきて、私の手から受話器を取ると、私を優しく抱きしめる。おばあちゃんが電話の向こうのお父さんに何か言っていたけれど、私の耳は泣いているせいで遠くなっていて、何を話しているのかは聞き取れなかった。
その日はお風呂の中でも泣いて、寝る前にも泣いた。一度、おばあちゃんが私の頭を撫でに来ていた。
お父さんがこっちに本当に「帰ってきた」のは、それから四日経った後だった。
お父さんがうちに帰ってきたのに気づくと、私は自分の部屋に入った。出迎えなんて、したくなかった。
居間の方でおばあちゃんと何か話している声を、聞かないようにして、私は図書室から借りてきた本に集中する。最近は雑誌も読まないし、テレビも観なくなっていた。
しばらくして、お父さんがドアをノックした。何、と私が本を読みながら答える。
「楓。お父さん、中、入っていいか?」
入れば、と私は答えた。
お父さんはドアを開けると無言だった。私の部屋の様子を見て、何か言いたいことがあるなら言えばいいと思ったけど、お父さんは何も聞いてこなかった。机の引き出しの中も、前にお父さんに見られた時とは全然違う事になっている。勝手に開けたら許さないけど。
「お父さん、帰ってきたからな。これからは、楓とずっと一緒だから」
……そう。
「辛い思いさせて、ごめんな」
……ねえ、お父さん。
……多分お父さんって、私のこと何にも解ってないよね。
こっちに帰ってきてからしばらくして、お父さんは新しい仕事を見つけた。
そして、私はフィギュアスケートを辞めた。
私がスケートを辞めると言い出した時、お父さんは、辞めてもいいのかと私に訊いてきた。私の返事は同じだった。嫌な事を思い出すからってだけじゃなかった。お父さんがこっちに戻ってきてから、初めて私は、スケートにはすごくお金がかかるんだという事を知ったからだ。
何週間か経ってから、私は、バーナビーさんの事はどうなったのかとお父さんに訊いた。するとお父さんは、バーナビーさんとは別れたと答えた。
お父さんが帰ってきてから、うちでは何となく『HERO TVは観ない』という約束が出来ていた。それについて、お父さんがどう思っているのかは知らない。私が夕飯を食べてから自分の部屋に入った後、お父さんはテレビのチャンネルを変えているのかもしれない。でも、それを確認するのは嫌だった。
学校は、少しだけ楽しくなくなった。友達はみんな優しい。私がNEXTでも、前と変わらず仲良くしてくれる。でも、友達との話題の中に、たまにヒーローの話が出てくる。それが本当は嫌だ。私の方から別の話題をする度、自分が嫌になった。どうして、私はこんなに嘘ばかりつく子になってしまったんだろうかと。
何ヶ月か経った頃、学校の授業で学年全員が一つの教室に集まり、教育番組を見る事になった。番組はごく普通の、交通ルールがどうとかいう見飽きた内容。番組を見終わり、先生がデッキの停止ボタンを押す。するとテレビの映像が切り替わり、画面にHERO TVのロゴが映し出される。現在まさに、リアルタイムでヒーロー達が犯人を追いかけている場面だった。
チャイムが鳴るまであと十分くらいある。先生たちはテレビを消して私たち生徒を教室へ戻らせようとしたけれど、誰かがテレビを消さないで、と声を上げた。それに続いて他の子達も、このままHERO TVを観たいですと言う。まあHERO TVなら、と先生たちはあっさりテレビの音量を調整して、私たちにヒーローの活躍を見せる事にした。
私はぎゅうっと両足の膝を寄せて、全身を固くして俯いていた。周りはみんな、テレビに映るヒーロー達の活躍に夢中になっている。いっそ耳を塞いでしまいたかったけど、あんまりおかしな事をしていると、隣の子や先生たちにどうかしたのかと訊かれる気がして、出来なかった。
お願い、早くチャイムが鳴って。テレビから流れてくる声を聞かないようにしていた私の耳に、HERO TVおなじみの司会の声が聞こえてくる。
『おっと、これは一体どうしたのでしょう……ああーっと! バーナビー、着地に失敗! この隙に犯人が逃亡していきます、これは痛い! すぐさま追跡に向かうようですが、果たして、無事に犯人を捕まえる事が出来るのでしょうか?』
盛り上がっていたみんなの口から、がっかりしたような声が溢れた。がんばれバーナビー、なんてテレビに向かって言う子もいたけど、たった一人だけだ。
『いやー、それにしてもバーナビー・ブルックスJr.、今期は全く振るいません。これは、キング・オブ・ヒーローの座も危ういのではないでしょうか?』
「なんかさあ、ここんとこずーっとバーナビー、調子悪いよね」
私の近くにいた誰かが、隣の子に向かってそう言っているのが聞こえてきた。
「だよねえ。この前なんて、ポイントゼロが三回だっけ、続いたよね」
「そうそう。どうしちゃったのかなあ、病気とか?」
「ワイルドタイガーが引退しちゃったせいじゃないの。うちのお父さんがそう言ってたけど」
「えー……でもさあ、なんかやだなあ。あたし、バーナビーが一番好きなんだもん」
「あたしも! 早く元に戻ってほしいよねえ」
周りのみんな。テレビの司会。ヒーローの人たち。
全員が、私のことを責めているような気がした。
それから三日後、私は近所の床屋さんに、髪を切ってもらいに行った。床屋さんの待合室に置いてある本は、子供向けの絵本と少年漫画の雑誌、それに女性向けのゴシップ誌だ。その中で私が読みたいものはないから、いつも何も読まずにいる。でも今日は、週刊誌の表紙に大きく書かれていた字が気になって、ゴシップ誌を取って開いた。私が読むにはちょっと早い本だけど、床屋のおじさんは何も言わずにお客さんの髭を剃っていた。
読んでみると少し難しい言葉遣いがあったけど、私でも大体書いてあることは理解出来た。バーナビーさんのプライベートでの様子がおかしいということ。アポロンメディアとの関係が悪くなっているんじゃないかということ。
こういう雑誌は、出来るだけ沢山の人に買ってもらう為に、わざとありもしないデタラメを書くものだという。お父さんが突然引退した時も、ニュースやインターネットで、本当の事とは全然違うことばかり噂されていた。『能力がなくなりかけている』って本当の事を言えれば良かったんだろうけど、大人の事情でそうはいかなかったらしい。
だから、こんなゴシップ誌に書かれていることを、そのまま信じる必要なんてない。私はそう思うけど、お父さんはどうなんだろう? この床屋さんには、お父さんも来ている。この間は、「危うくもみあげ全部剃られるところだった」なんて言って笑ってたけど、その時ここにあったゴシップ誌には、どんな話題が取り上げられていたんだろう。それだけじゃない。仕事先では? ご近所さんと会った時は?
こっちに帰ってきてから、お父さんの様子に変わったところはない。私の知ってる通りの、へらへらしてうざくて、あんまり格好良くないお父さん。だけど、たった一つ変わったところがある。
お父さんは、私に嘘をつかなくなった。
でも、本当にそうなのかな。
ねえ、お父さんとバーナビーさんは別れて、それぞれ別の生活を始めた。それじゃ駄目なの?
お父さんが引退してから一年経った頃、バーナビーさんはヒーローを引退した。
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