タナッセが雨水の乗った枝葉を手で除けると、巨木の根元に先客がいた。雨除けの外套を着てはいたが、こんな肌寒い雨天の日だというのに、何故自室で過ごさないのか。しかも、また一人きりで。
思わず怒鳴りつけてしまいそうになったが、向こうがタナッセに気づいて静かに微笑みかけたのを見て、言葉が出なくなってしまった。
「タナッセ、やっぱり来たんだ」
「……お前は……また、こんな天気に一人で……」
「今日はきちんと着てきた。小雨だし、別に寒くもない」
そう言うレハトの前髪は少し濡れていて、細かい雨粒が点々と髪についていた。近づいて手を伸ばそうとしたところで、我に返って手を止める。もう、そういう事をしても良い間柄ではない。……そういう間柄だったことが、過去に一度でもあったのかどうかはさておき。
タナッセはしばし逡巡して、レハトから少し間を空けた所に腰を下ろした。ちらりと隣のレハトに目をやると、彼女はぼんやりと正面を向いたまま、膝を抱えていた。
「……ここで何をしている?」
「色々、考え事を」
「考え事など、自分の部屋でも出来るだろう。何も、こんな天気の日に外に出ずとも良かろうに……」
「まあ、そうなんだけども、何となくここに来たかったんだ」
「お前の従者はどうした」
「部屋にいると思う。気づかれないうちに戻るさ」
部屋付きに黙って抜け出てきたことに、タナッセは呆れて溜息をついた。
「……うまくいっていないのか? 部屋付きの者達と」
「そういう訳じゃないけれど、入れ替わってまだ日も浅いから、何となくお互いに気まずくて。でも、よくやってくれているよ。ローニカ達が引き継ぎをきちんとしてくれたから、特に不満もないし」
「そうか……それなら良いのだが」
「心配してくれたのか。ありがとう、タナッセ」
不意にまたレハトに微笑みかけられて、タナッセは反射的に視線を背けた。
「あ……あまり使用人に苦労をかけるな。連中はそれが仕事でもあるが、主人の勝手が過ぎると、今後やりにくかろう。お前の評判にも関わる」
「そうだな……」
あまり気のない相槌だった。口約束とはいえ婚約したばかりにしては、今のレハトは少し寂しげであった。ヴァイルの方はもっと嬉しそうだったように見えただけに、この温度差には少々戸惑いを覚えずにはいられない。
婚約。同じ口約束なら、自分の方が先に交わしていたのにと、つい甲斐もない事を考える。馬鹿馬鹿しい。自分のあれは、ヴァイルが申し出たそれとは全く意味が違うものだ。今更何を言ってどうなる。ヴァイルがレハトに求婚した。そして、レハトはそれを受けたのだ。
「ヴァイルと結婚する事にしたんだ。もう聞いたかな」
レハトの口ぶりは、まるで今朝の朝食の品目でも報告するかのような悠揚としたものだった。唐突な切り出し方とその態度に、タナッセは胸に杭を穿たれたかのような痛みを感じた。
「ああ……奴本人から報告された。その、喜ばしい事なのではないか。印持ち同士……年回りも同じで、似合いだろう」
「ありがとう」
タナッセなりに苦心して捻り出した祝いの文句に対し、レハトは曖昧な微笑を返した。その反応をタナッセが訝しんでいると、レハトが首を傾げる。
「どうした?」
「いや、その……あまり……嬉しそうではないように見えたのでな」
「ああ、何だ。そんな事か……本当の事を言うと、少し早いかなと思うんだ。ついこの間成人したばかりなのに、もう結婚するのかと思うとさ。でも、このまま変なのに言い寄られるのも鬱陶しいだけだし、ヴァイルの事は好きだし」
「……そうか……」
タナッセは立ち上がった。これ以上レハトから聞きたい事などなかった。自分が惨めになるだけだ。こういう目に遭うことは覚悟の上で城に残ったつもりだったが、自ら進んで傷を負いたくはなかった。
「帰るのか?」
「ああ……考えてみたら、こういう事はあまり好ましくないと気づいたのでな。つまりは、その……お前が私のような者と、こんな場所で二人で会っているのは。口さがない連中に知られたら、根も葉もない風評が立ちかねん。奴等は他人の名誉など……」
そこまで言いかけたところで、やにわにレハトが立ち上がり、タナッセに無言で歩み寄ってきた。彼女はタナッセが身じろぐよりも早く、吐息がかかりそうなほどに近づいて、タナッセの服をそっと掴んだ。
去年と比べて、少しだけ背が伸びたと感じた。雨と土の匂いに混じって、仄かな薫香の香りがタナッセの鼻孔をくすぐる。
成人前の予感そのままに、レハトは美しくなった。篭り開けの彼女を見た時、自分の求婚が拒絶されたのはやはり必然だったのだと思う一方で、どうしようもなくずるずると未練を断ち切れないでいるのを自覚した。そして、今もなお。
「タナッセ……あの時、言っていたな。私が『愛している』と言ったら、何でもしてくれると」
「……ああ……そうだ、確かに言った。お前の気の済む限り、罵るなり何なり好きにすればいい」
「だったら……『愛している』から、この城にいてほしい。ずっと、私を見ていてほしい」
迂遠な復讐。当然の罰。これが、きっとそうなのだろう。だったら好きなだけ傷つければいい。
どうして彼女を殺そうなどと考えてしまったのだろう。こんなにも、愛おしいと思う者のことを。
「……分かった、いいだろう。お前がそう望むのなら、私はここに残る。前言通り、お前が幸せになるのを見届けるさ……それで良いのだろう」
「……ありがとう」
レハトがタナッセの服から手を離し、顔を上げて微笑んだ。その頬に、上から雨粒が一つ滴り落ちる。
「そろそろ部屋に戻れ。身体を冷やすといけないから、温かい茶でも淹れてもらうといい」
「茶は駄目なんだ、あれからずっと……どうしても、口をつける気になれなくて」
「……そうか……すまん……本当に……」
レハトは困った顔で首を横に振ると、何も言わずに外套のフードを被り、タナッセの横をすり抜けてその場を去った。
レハトが真っ直ぐ自室に戻ると、応接間にはレハトの部屋付き以外の人間がいた。侍従頭が狼狽しながら歩み寄る。
「レハト様、一体どちらへ……陛下がお見えです」
「陛下が? それは失礼したな。今はどちらに」
「隣のお部屋にいらっしゃいます」
「そうか、分かった」
若干恨みがましげなヴァイルの侍従たちの視線を受け流して、レハトは侍従頭に雨除けの外套を脱いで渡すと、隣の寝室へ入った。
露台へ続く扉が開いていて、そこにヴァイルが立っており、レハトに気づくと笑顔を浮かべた。近くにはヴァイルの侍従頭が控えていたが、無言で一礼し、部屋を後にする。
「レハト、どこ行ってたの」
「ちょっと用事を思い出して」
そう言うと、ヴァイルが苦笑しながら髪に手を伸ばす。
「……髪、少し濡れてる。外に出てたろ」
「ああ、出てた」
「体調崩すとまずいでしょ。また、誰だか知らないけど医士の誰かに『馬鹿ですか』って言われるんじゃないの」
「ヴァイルだって、雨でも平気で屋上に出ていたくせに」
「俺はいいの、もうやってないし。そんな暇がないっていうのもあるけどさ」
レハトは笑いながら露台の扉に近づき、そこから外に目をやった。後ろからヴァイルが抱きしめてくるのを、当たり前のように受け入れる。
「……少しは驚いてもいいんじゃない?」
「何となく、そんな気がしていたから」
「なーんだ、ちょっと残念」
「悲鳴なんて上げたら、侍従頭が血相変えてすっ飛んでくるぞ。いくら許婚でも、婚姻前に情を通じるなどもってのほかー、とかなんとか」
「確かに」
互いにくすくすと笑いながら、小雨降りしきる外の光景をぼんやりと眺めていた。
「……用事はもういいの?」
「ああ、もう終わった。雨の日の外出は、今日でもうお終い。怖いお医者の先生に叱られたくないし」
「そっか……」
「ヴァイルも、もう雨の日に屋上に行ったりしないようにな」
「ん、分かった。レハトがそう言うなら行かない……もういいし。うん、もういいんだ。もう……ねえ、レハト。レハトはさ、俺のこと、その……」
レハトはヴァイルの手に、自分の手を添えた。ヴァイルの手が一瞬ぴくりと震えたが、そのままレハトに大人しく握られ、代わりのように身体を抱きしめる力を強くしてきた。
「好きだよ。だから結婚するんじゃないか」
「そうだよね。俺、何言ってるんだろ……ごめんねレハト、変なこと言ってさ」
「いいよ……ヴァイル、ちょっと」
レハトは身を捩ってヴァイルの抱擁を解くと、彼と向かい合って手を取り、指を絡ませて握った。頭上で、ヴァイルが息を飲むのが分かる。ついこの間まで同じくらいの背丈だったのが、今はもう頭一つ分の差がついている。あの時握り合ったヴァイルの手も、今は大きさが随分違っていた。
「私はここにいる。ずっと一緒だ。そう信じてくれていい……信じてほしい」
「……分かった。レハトのこと、信じるよ。ありがとう、そう言ってくれて……すごく嬉しい」
ヴァイルが額を軽く合わせてきた。それから少し躊躇いがちに寄せられた口付けに、レハトは軽く顎を上げて応えた。
(終)
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雨の日の約束(2)