雨の日の約束(1)
幾日か前に面会の約束を取り付けて、二度も急用で予定がずれ込み、ようやく顔を合わせてレハトとゆっくり話が出来る様になった時。
貴賓室で自分を待っていた彼女の瓊姿を目にして、ああ、やはり今しかないなとヴァイルは確信した。
だって、すぐにでも言わなければ、絶対に他の誰かに連れて行かれてしまう。
物言う花、という言い回しがあるけれど、椅子に腰を下ろしたレハトは、部屋を飾る活花よりもなお美しい。篭り明けの彼女を見た衝撃も相当だったが、成人からまた一年も経たない筈なのに、どうしてそんなに日々容色が磨かれるのかと、会う度に驚きと焦りを覚える。彼女への縁談攻勢の凄まじさは人づてに聞いているが、その中には単純に選定印が目当てというだけでなく、彼女自身に魅了されているのもいるのではないか。そう考えると改めて、男性を選択して良かったと思う。うっかり気の迷いで女性を選んでいたら、一生後悔したかもしれない。
「ごめんね、遅くなって」
「大丈夫。も、ついさっき来たところだ」
レハトは微笑みを浮かべ、子供の頃そのままの言葉遣いでそう答えた。礼節にうるさいヴァイルの侍従頭が背後で渋い表情をしていそうだったが、ヴァイルとしては一向に構わないのだから、存在を黙殺する事にする。
緊張と不安に昂ぶりつつヴァイルが席に着くと、すぐに侍女が茶を運んでくる。レハトの視線はテーブルに置かれたカップの水面に注がれていた。そのぼんやりとして頼りなげな様子に、体調が良くないのかという不安が過ぎる。成人の儀の直前、レハトは急に倒れて一週間寝込んだ。起き上がれる所まで快復はしたものの、今でもまだ、すぐに無理が祟って寝付きがちな有様である。
レハト、大丈夫? また疲れた?」
「いや……そんな事はない。ありがとう、心配してくれて」
「そっか。ならいいけど、どうかしたの」
「こんな風に、日の明るいうちに静かな時間を過ごすのも久しぶりだなあと思って」
「ああ……なるほど。お互い、周りが色々うるさいもんな」
レハトは継承権を放棄した後、リリアノの計らいで爵位を与えられ、貴族の仲間入りをした。印持ちということで、ランテ程ではないが、そこらの中堅貴族など及びもつかない程の所領を有している。その点も、彼女に押し寄せる求婚者達にとっては魅力的なのだろう。
「『不穏な策を弄する輩もいるから、さっさと決めてしまった方がいい』と、ローニカには言われているんだけれど」
「ローニカ……ああ、あんたの所にいた侍従頭ね」
平然とした表情を装いながら、不穏な策と聞いてヴァイルの脳裏に過ぎったのは、昨年レハトが倒れた事件の事だった。
すると、まるで頃合いを読んだかのように、レハトの膝から本が滑り落ちた。待ち時間中に読んでいたのだろう。侍従が拾い上げてレハトに返したその本の表紙に何気なく目をやり、ヴァイルの表情が一瞬強張ったことに、果たして誰が気づいたか。
「……詩集なんて読むんだね」
「ああ、うん。評判が良かったから、借りてきたんだ」
知っている。そんな凝った装丁の本が、図書室に置かれている筈もない。
レハトは、それ……好きなの。詩。ディレマトイの、さ」
「特に、好きでもなければ嫌いでもないかな。前に舞踏会で、ある貴族からディレマトイについて話題を振られたんだ。読んだ事はないって答えたら、それならお貸ししますってしつこく言われて……だから、次に会う時までに、読んでおいた方がいいなと思って」
「ふうん。でも、よく手に入ったね。人気なんでしょ、それ」
「タナッセが貸してくれた」
ああ、やはりか。ヴァイルは内心独りごちた。一体、いつの間にあいつから本を借りるような仲になったのかと、何とも言えず心が騒ぐ。
しかしレハトは、そんなヴァイルの心境にはまるで気づかぬ様子で、ぱらぱらと詩集を捲ったり、本の表紙を眺めたりしている。
「こうして見ると、好きじゃないと言っていた割には、丁寧に装丁させてあるなあ……」
「あいつの性分なんでしょ」
「ああ、そういえば。部屋もかなり整頓されていたし」
「……あいつの部屋、行ったんだ。よく入れてもらえたね」
「彼に詩の添削を頼んだんだ。体調を崩して以来、あんまり外で身体を動かすことも出来なくなったから……御前試合も近いし、本当はそろそろ本格的に剣の鍛錬を再開したいんだけれども、医士に聞いたら、『死にたいんですかあんた』って」
「何、その口の利き方。レハト、舐められてるんじゃないの。どこの誰、名前は?」
「名前……何だったかな、忘れた。思い出したら、その時に言うよ」
そう言うレハトの表情からは、果たして彼女が本当に医士の名前を覚えていないのか、気を遣って言わないだけなのかはヴァイルには判別つきかねた。やはりまだ、出生を侮られて不快な思いをさせられる事も多いのかと心配を覚える。
「……あのさ、レハト。前に、一緒に湖に行ったよな。覚えてる?」
「勿論。『共に支えて歩む事を』って」
「そう、それ」
レハトが頷きながら、左手を軽く握ってみせるのを見てヴァイルはほっと胸を撫で下ろした。忘れられていたらという不安は大いにあったが、覚えていてくれたらいいという期待も少しは抱いていた。過度な期待は禁物と知っていても、現実にレハトが成人後も城に留まってくれているのを見ると、やはり期待せずにはいられなかった。
「その……ひょっとしてさ、俺がそんな約束したから、レハトはこの城に残ってる、とか……?」
「うん。でも、それもあるけれど、はこの城、結構気に入ってるんだ」
「あ、そうなんだ。それなら良かった……うん、そっか。気に入ってるんだ……良かった……まあ好きか嫌いかで言ったら、好きな方がいいよね……」
そんな事をぶつぶつ呟いて机に突っ伏すと、侍従頭がわざとらしく咳払いをした。礼儀が良くないと言いたいのだろう、仕方なく座り直す。確かに、これから言うべき内容を考えると、居住まいは正すべきだろう。
レハト
「はい」
真面目な顔で正面から向かい合うと、レハトの方も何かを察したのか、少し身を固くしている。その膝に置かれた詩集から、ヴァイルは敢えて目を背けて話を始めた。



レハトと結婚することになったから」
開口一番ヴァイルがそう告げると、タナッセの手がカップを取り落とし、テーブルの上に茶の水たまりが広がった。慌てて使用人が片付けにかかる。
「何やってんの……」
「いや、その……すまん。少々疲れているのかもしれん……」
それだけ言ってタナッセが押し黙ると、ヴァイルは何も気づかない振りをしながら話の続きを始めた。
「それだけ? 他に何も言わないんだ」
「……他に、とは……」
「だって、前は俺とレハトが連んでたら、あんなのと関わるなーとか何とかうるさく言ってきたじゃん」
「それは……以前の話だ。あれも今は歴とした貴族の一員なのだし……まあ……良いのではないか。母上には……もう?」
「取り急ぎ手紙で。いずれは挨拶しなくちゃいけないだろうけど」
「……そうか」
タナッセの震えた声色には、動揺や焦燥が露骨に現れていた。それでも平静を取り繕うとしている様子は、見ていて痛ましくはあるけれど、同時に腹も立つ。言いたいことがあるならはっきり言えと思う。しかし、口に出しては言わない。タナッセの方から何も言ってこないのなら、ヴァイルの方から敢えて突っ込む理由もない筈だ。
本当は、山ほど問い質したい事がある。あの時、タナッセが蒼白な顔で瀕死のレハトを運び込んできた時、一体何があったのか。リリアノでさえ事の顛末は知らないというが、タナッセは絶対に知っている筈だ。
あの騒動はお喋り雀共の格好の標的となって、随分と下衆な噂も流された。連中の想像など、九割が好奇と悪意で出来ている。いくら何でも、奴等が邪推するような出来事が実際に起きたとは思わないし、思いたくもない。どんなに仲が拗れていても、ヴァイルなりに従兄に対する最低限の信用と信頼もある。
けれど、あの一件以来、タナッセとレハトの互いに対する態度が、打って変わって軟化したのは事実だった。そして、あれだけこの城を嫌っていたタナッセが、譲位後も何故かここに留まり続けていることも。
「タナッセは、仕事の方はうまくやれてる?」
ヴァイルが唐突に話題を切り替えると、俯いていたタナッセが弾かれたように顔を上げた。それから、確かに少し疲れた顔で、
「まあ、何とかな。今までが今までだから、穏当とはいかんが……それも自業自得というものだ。仕方あるまい」
と答えた。
現在のタナッセは、文官の下積みのような雑務をさせられていると聞く。周囲の嫌味と冷笑に晒されて、それでも当人は悪態一つつくことなく与えられる役割をこなしている。ある意味精彩を欠いたというか、まるで人が変わったように大人しくなったという評判だ。
「なんか相談に乗れるような事があったら、言ってよね」
「ああ……」
タナッセは生返事を返しながら、使用人が運んできた新しい茶のカップを何と無しに見やっていたが、ふと、何かを思い出したようにヴァイルの顔を見て口を開きかけた。
「……なに?」
「……その……良かった、な。いずれ正式に婚約した暁には、私の方からも祝いに伺おう」
「えー、いいよ、そこまでしなくて。そんな堅苦しいことしなくても、おめでとうって一言くれればそれで十分だし」
「お前という奴はまたそんな事を……体裁というものがあるだろう。立場を考えろ、立場を。まったく……」
くだくだしい小言に苦笑と嘆息を返しつつ、ヴァイルはカップに口をつけた。
漠然とだが、良かった、というタナッセの言葉は彼の本心であるように感じられた。ただし、そこにはヴァイルの願望も含まれてはいたが。

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