その日、珍しい事に、フォンヴォルテール卿グウェンダルは自分からアニシナの実験室に出向いた。
普段の彼なら、余程の用がない限り、アニシナの実験室には近寄らない。うっかり実験台にされてはかなわないからだ。
つまり、その日は、かなり重要な用件があったのだ。
どうしても確かめずにはいられない、とてもとても大事な用件が……。
「アニシナ、入るぞ」
グウェンダルはノックをして、実験室の扉を開けた。
中にはアニシナが机に向かって座っていたが、グウェンダルが来るなり、何故かばばっ!と机を片付け、広げていたものを裏返した。
「…?」
彼女が一体何を机の上に広げていたかは、グウェンダルには分からなかった。
「な、何の用ですか、グウェンダル?」
コホンと咳払いをして、アニシナが立ち上がる。
「いや、大した用ではないのだが…」
「なら帰りなさい。私は今忙しいのです」
アニシナはズバッとそう言い放った。彼女は本当に忙しかったのだ。新しく入手した同人本を読み返すのに。
「…最後まで言わせろ。大事な用なんだ、お前に訊きたい事があって来た」
「私に…?」
アニシナはグウェンダルの表情がいつになく真剣なのを見て取り、彼の話に興味を持った。
「よろしい。何を訊きたいのですか?」
「…」
アニシナは机の上のカップを取って、茶をすする。
グウェンダルは口を開いたが、またすぐそれを閉じた。
「何を言い淀んでいるのですか。訊きたい事があるなら、はっきりおっしゃいなさい」
「…では訊くが…その…」
躊躇いがちにグウェンダルは質問した。
「一体、コンラートと…お前は、どういう関係なのだ?」
言い終わった後で、何と下らない事を聞いたのだろうか…と、グウェンダルは自己嫌悪した。
「コンラートと私、ですか?」
アニシナが目を丸くする。彼女はグウェンダルの唐突な質問に気分を害した様子はなかった。
「ああ。最近、お前達2人が話をしているのを目にする事が多いのでな…」
どうしてグウェンダルがそんな事を気にするのか、アニシナにはさっぱり理解出来ない。
「私とコンラートが親しくしていると、いけない事でもあるのですか?」
「そうではないが…」
いけなくはないが…コンラートの性格に問題がある。あの爽やかで人の良さそうな好青年ヅラをしている陰で、不敬にも新魔王陛下に対して邪な感情を抱いているのだ。彼が毎日といっていい程桃色真っ盛りな妄想を繰り広げては、夜中にそれを小説としてしたためている事を、他でもないコンラート自身の口から(聞きたくなかったが)グウェンダルは聞かされた。
なのに…最近、そのコンラートがアニシナと突然親しくなり始めたのだ。
何故なのかは、グウェンダルには皆目見当がつかない。だが2人でこそこそと会話をしている所を何度も目撃したし、既に使用人や兵の間でも、魔力を持たない為に実験台としては役立たずな筈のウェラー卿が何故フォンカーベルニコフ卿の実験室に出入りしているのか、噂になっている。
そんな事はあり得ないと思うのだが…嫌な想像をせずにはいられない。
「…一体、あいつと何を話しているのだ?」
「別に、貴方に話す程の事ではありませんよ」
サラリとそう言ってのけたアニシナだったが、純情なグウェンダルの心を傷つけるには十分な科白だった。
…私に話せない…私に言いたくない事を話しているのか…?
…やはり、あいつとそういう関係なのか…!?
「アニシナ、あいつがどういう性格の男なのか解っているのか?」
「…? ええ、勿論。陛下ラブラブ妄想小説の事でしょう? 良いではありませんか、それくらいの事」
「な、何!?」
アニシナがそう返事をすると、グウェンダルは喫驚した。
それくらい!?
アニシナ…お前はコンラートがユーリに気があってもいいと言うのか!?
二股をかけられて弄ばれかねないのだぞ!?
「私としては、今後も彼と(『妄想小説の作者』対『その編集者』という)親交を深めていくつもりです」
「いかん、それはいかんぞ!」
グウェンダルが焦って制止しようとしたので、アニシナは気分を害し、むっと眉を潜める。
コンラートが書くコンユ妄想小説は、今やアニシナにとっては密かな、そして大きな楽しみの1つだ。それを邪魔するような発言は、例え幼馴染みであっても許し難いものだった。
「何故ですか。何故私がコンラートと交際したいと思ってはいけないのですか」
意地になってそう言い返すと、グウェンダルは泣きそうな表情になった。卒倒しかけて思わずつんのめるが、何とか意識を保って体勢を立て直す。
「『交際』…か……そうか……そうだな」
「グウェンダル?」
「…分かった…お前がそこまで真剣なら、私はもう何も言わん」
グウェンダルはよろよろと踵を返した。その孤独で寂しげな背中には寒風が吹きすさんでいたが、何故そんなにグウェンダルが落胆しているのか、アニシナにはやはり理解出来ない。彼女の頭にあるのは『同人本の続きをさっさと読みたい』という事だけだった。
「何だか解りませんが…訊きたかった事はそれで全部ですか?」
グウェンダルは返事しなかった。失恋の絶望と落胆は、彼から返事をする気力をごっそりと奪い去ってしまっていたのだ。
グウェンダルは実験室を立ち去ろうとドアを開けたが、ドアの向こうにはコンラートが立っていた。
「グウェンダル…どうしたんですか?」
兄の顔色が良くないのに気づいて、コンラートは心配げに尋ねる。そんな彼の顔を、グウェンダルはじっと見つめていたが、やがて悲しげに目を伏せて、
「…気にするな」
と言い残し、コンラートの横をすり抜けて立ち去っていった。
「…? アニシナ、グウェンダルはどうかしたんですか?」
コンラートは左手で実験室のドアを閉めた。右手で、胸に数十枚の紙を抱えている。
「さあ。何だか訳の解らない事を色々と言っていましたが…それよりもコンラート」
アニシナは手を出した。
「出来たのでしょう? 原稿。見せなさい」
「ああ…これだ」
コンラートが抱えていたのは原稿用紙だった。書かれている内容については、言うまでもない。
アニシナは椅子に座って、その原稿に目を通し始めた。
「…そういえば…この間の新刊、なかなか好評ですよ」
ほれファンレターだ、と、アニシナは机の上に20通近くの手紙を出した。
「今度はこんなに来たのか? この間は3通ぐらいだったのに…」
「それだけ売れて来たのでしょう。喜ばしい事ではありませんか」
コンラートは椅子を借りて、ファンレターに目を通し始めた。この作業は必ずアニシナの部屋でする事にしている。自分の部屋に持っていって、うっかり誰かに見つかれば大変だ。
「私としては、貴方はムダに女性にモテますから、実名で執筆を行った方が人気が出て、本がより売れると思うのですが」
「いや、それはちょっと…流石に、ユーリには知られたくないからな…」
するとアニシナは鼻先でコンラートをせせら笑った。
「小説の中では何十回と陛下を誘惑しているくせに、まだそんな軟弱な事を言っているのですか。何もムリヤリ(以下自主規制)しろと言っている訳でもなし、その隠し持っている無駄な色気で魔王陛下のハートを射抜く位、そう難しい事でもないでしょう」
「…」
無表情でものすごい事を言うアニシナに、コンラートは絶句させられた。
「それにしても…今回もまた一段とまあ…何といかがわしい、まあいやらしい、…おや、コンラート。ちょっとおいでなさい」
アニシナは原稿の1枚を机に置いて、一箇所を指さした。
「ここの『逆主従プレイ』ですが、もう少し過激に出来ないのですか」
「ああ、そこか…書いてて楽しかったなぁ。もっと激しくしても」
コンラートはにやにやと妄想真っ盛りの笑みを浮かべながら、遠くを見るような目つきをしていた。
「最初、君に出版の話を持ち込まれた時には、いまいち気乗りがしなかったが…今は、創作に張り合いが出てきて本当に助かっているよ」
「そうですか、それは良かったですね」
アニシナは幾つかコンラートに原稿の修正を指示した。
「出来れば今日中に済ませておしまいなさい」
「今日中、ねえ。今夜は徹夜かなあ…」
…そうはいかなかった。
夜、コンラートが夕食を終えて入浴した後、自室へ戻って来ると、グウェンダルが来ていたのだ。
食事の間から風呂に入っている最中まで、頭の中でひたすら怪しい妄想を繰り広げ続けていたコンラートだったが、突然の兄の登場には少々面食らった。何故なら、部屋へ戻った後は真っ先に執筆作業に取り組む予定だったのだから。
「どうかしたんですか?」
しかし、そんな事はおくびにも出さずに、彼は快くグウェンダルを招き入れた。
「座ったらどうです?」
「いや、いい」
何故か、グウェンダルの雰囲気は硬質で張りつめていた。そして、コンラートに大して幾らか敵対的ですらあった。
長兄と意見の食い違いで衝突した事は何度もあったが、そのいずれも、心当たりがあった。だが、今日は全くそれがない。どうしてグウェンダルが自分を睨むのか、コンラートにはまるで理解出来ない。
「お前に話がある」
「何ですか?」
理不尽に向けられる敵意に対する憤りと、それ以上に、妄想具現化作業に横槍を入れた事への激しい不満で、コンラートの態度も硬化してくる。
「単刀直入に言う。…あいつと別れろ」
するとコンラートが眉間に皺を走らせた。
そういう事か…
「…どういう事ですか? 何の事です?」
グウェンダルが何を言わんとしているか、コンラートはすぐに気づいたが、敢えてそう尋ねる。
「何の事かは解っている筈だ」
「…」
コンラートが不敵な笑みをつくって机にもたれた。
「貴方は何の権利があって、俺にそんな事を言うんですか? 俺が誰を好きだろうと、そんな事、貴方に関係ないでしょう」
「私も一度はそう考えた。だが、やはり黙って見過ごす事は出来ない。お前にあいつを任せる訳にはいかない」
コンラートが鼻先でグウェンダルを嘲笑した。グウェンダルが弟のそんな表情を見るのは、これが初めてだった。コンラートという男の本性をはっきりと見せつけられて、やはり、この男にアニシナは任せられないと強く思った。
「本当の事を言ったらどうですか、グウェンダル。貴方もあの人の事が好きなんでしょう」
コンラートが言った。
グウェンダルは一瞬羞恥心からか頬を染めたが、すぐに顔を上げて、きつくコンラートを睨んだ。ぎりっと拳を握りしめる。
「…そうだ。だから、下手な輩…特に、お前のような男には譲れない」
「…」
こんな所に大穴出現か。
……てっきりグウェンダルはアニシナが好きだと思っていたんだが、まさか、ユーリにホレていたなんてな…
「貴方ならいいって言うんですか?」
何を戯言を抜かしているのやら、とでも言いたげなコンラートの口ぶり。
「私が誰よりもあいつを側で支えてやっている。それに、あいつの事を誰よりも理解しているつもりだ」
この科白はコンラートを動揺させた。…自分の知らない間に、グウェンダルとユーリがそんなに親しくなっていたとは。
嫉妬心からコンラートはますますグウェンダルに大して敵意を募らせ、こう言い放った。
「…解ってませんね、貴方って人は」
「…」
「…あの人はもう、俺の物なんですよ?」
「なっ…!」
無論、真っ赤なウソである。
だがそんな事を知らないグウェンダルは、衝撃的な科白に、言葉を失って顔面蒼白になる。コンラートは優越感丸出しの表情で口元に笑みを浮かべ、追い打ちをかけるべく、更なる言葉を口から吐いた。
「あの人は俺なしじゃ一日だって生きられないんですよ。そういう身体にしたんです…俺が、ね」
そう言って低く笑うコンラートの背中には、大層邪悪なオーラが漂っている。
「まだ結婚もしていない身でありながら何という事をしたのだ、お前という奴は!!」
見る人を怯えさせるような、鬼気迫るグウェンダルの表情。もし剣を腰に帯びていたならば、即それを抜きはなって、コンラートに斬りかかっていた事だろう。それ程、彼の瞳には熾烈な炎が燃えていた。
だが、コンラートの嫉妬心は、グウェンダルのそれに負けていない。表面上は余裕ぶって有りもしないデタラメを並べ立てているが、内心ではグウェンダルとユーリの関係がどれだけ進展しているのか想像すると、不安を抱かずにはいられなかった。
「別に無理矢理迫った訳じゃありませんよ。何せ、俺とあの人とは…恋人同士、ですから」
『恋人同士』という言葉を、コンラートは殊更強調した。
ところで、この会話を廊下で偶然耳にした者がいた。
ギーゼラである。
アニシナの所へ新刊発行に関する打ち合わせをしに行く途中だった彼女は、偶然ウェラー卿の部屋の前を通り過ぎたのだが…そこで耳にしたのは、ウェラー卿とフォンヴォルテール卿が激しく口論している声だった。
彼女は2人に気づかれないようその場を立ち去り、急いでアニシナの部屋へ向かった。
「アニシナ! 大変なの、一大事よ!」
「一体どうしたのです、軍曹殿」
アニシナが実験道具のメスを置いて、マスクを外した。何かを解剖する所だったらしいが、ギーゼラにはよく見えなかったし、また、どうでも良かった。
「コンラートがついに陛下を部屋に連れ込んだのですか? でしたら、是非覗きに行きましょう!」
「ああ…それも素敵ね。そこまでいい知らせじゃないのよ。でも、とっても心ときめくニュースなの」
ギーゼラは部屋のドアを閉めて、鍵をかけた。彼女は興奮している様子だった。
「あのね、実はさっき、ウェラー卿とフォンヴォルテール卿が言い争ってたのよ」
「あの2人が口論ですか? 珍しい。原因は何です?」
「それが何と、恋愛合戦なのよ! お互いに、『自分の方が幸せにする自信がある』って言い合っていたの。ヴォルフラム閣下とコンラート閣下に加えて、グウェンダル閣下までもが陛下にメロメロだったなんて…」
ギーゼラはうっとりと明後日の方向を見つめた。「魔族三兄弟・陛下ラブラブ三つ巴合戦」という突然の急展開は、完全に彼女の萌えのツボを捉えていた。
「どうしよう、ユヴォルユもいいって思ってたのにコンユにも手を出しちゃった私だけれど、グウェユにもよろめいてしまいそうよ。貴方はどう?…アニシナ?」
ギーゼラが目を丸くした。
アニシナが石化していたのである。表情を固まらせたまま、微動だにしない。
「アニシナ?」
「…グウェンダルが、陛下を?」
「? ええ、そうよ。すっかり頭に血を昇らせたご様子で、コンラート閣下に向かって『お前のような奴には譲れない!』とか何とか仰ってたわ」
「…そう…ですか」
アニシナが首だけをぎこちなく左に動かした。
「アニシナ、どうかしたの?」
「いえ、何でもありませんよ。さ、新刊の打ち合わせを致しましょうか」
そう言って机に手を伸ばした彼女だったが、手に取ったのはペンではなく、骨飛族の骨の一部。それをまるでペンのように右手に持って、文字を書こうと紙に突きつける。
「アニシナ…それは骨よ。ペンじゃないわ」
「おや、確かに。どうしたのでしょう、私とした事が」
アニシナは慌てて本物のペンに持ち替えた。
「そうそう、それで新刊の表紙についてでしたね。必要な書類を隣の部屋から取って来ます」
そう言ってアニシナが開けたのは、隣室への扉ではなく、窓だった。
「アニシナ、そっちは…!」
ギーゼラが声を上げた時には遅かった。
フォンカーベルニコフ卿は、3階の部屋からものの見事に転落してしまったのだった。
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続・眞魔国の男は秘密がいっぱい(1)
ああ…代名詞の多用が生んだ、何ともアホな勘違いです。