床を鳴らす靴底の音を、デューターはまどろみの中で聞いていた。
一人掛けのソファに沈んだまま、反射的に動かない自分の身体。以前なら絶対に動いただろうに。
…俺も老いたな。
そう、感じた。
先の大戦中は、戦争終結後の身の振り方など考えもしなかった。ある意味、自分の身そのものをあてにしていたのかもしれない。
今日は来客の予定はなかった。ラジオから流れる『パルティータ第1番ロ短調』の音に混じって、書斎に足音が近づいてくる。
収容所での生活も過酷だったが、精神的に解放された所があった分、常に神経が張りつめていた親衛隊時代よりはましだった。
だが、その間の年月は、確実にデューターの肉体から気力を削いでいった。敗戦という言葉に二度も絶望の響きを感じたりはしないが、さりとて、気力を回復させてくれる要素は何もない。
…一度は汚れた人生だ。這い上がれる期待などしない。
もう誰が死ぬとか生きるとか、そんな事は考えなくていい。己一人の身の振り方だけ、考えていれば良いのだから…。
…足音が止まった。
そして、肩が叩かれた。
「ヘル・デューター?」
デューターがうっすら瞼を開けると、頭の後ろで声がした。
「鍵が開いていたので、入らせて戴いた」
エイプリルが2度目にデューター宅を訪問した時、彼の自宅前には車が停められていた。運転手がその運転席についており、そして、屋敷の玄関前にもう1人誰か立っている。
邪魔くさい車の横を素通りして、エイプリルは敷地内に足を踏み入れた。彼女の腕の中には大きめの麻袋が抱えられている。
彼女を見ると、家の前に立っていた男性は、自分から声をかけてきた。
「失礼。お名前は?」
「エイプリル・グレイブスです。ヘル・デューターに会いに来たのですが、彼が何か?」
いや、あのデューターが何をやらかそうと、あまり驚く気はしない。だが、エイプリルの目の前にいるこの男は、どう見ても政府関係者だ。
「我々は外務省の者です。申し訳ないが…フラウ・グレーブスには少しここで待っていただくか、さもなくば、今日の所はお帰り願いたい」
こちらの名前の発音が間違っているのはさておき…外務省、ときた。
外務省が一体、デューターに何の用なのだろう。いっそ法務省なら理解出来るのだが。
エイプリルは少し首を傾げながらも、寒さを押して、
「ここで待たせてもらいます」
と、告げた。
どうやら今、家の中で、デューターが外務省関係者と何やら話をしているらしい。その話の内容はエイプリルには想像がつかなかったが、何も訊かずに黙って玄関脇に立っていた。
一方、その外務省職員の方はというと、これがまた至って事務的だった。上司が用件を終えて出てくるまで、ただただ無言で立ちつくすのみ。
エイプリルはコートの襟を少しかき合わせた……こっちに来てからどうしてこう、デューターに会いに来る度に待たされなくてはいけないのだろうか。
エイプリルには忍耐力がきちんとあるが、それも場合による。ろくに日が差さない真冬の屋外では、彼女の忍耐力も普段の力を発揮出来ないというものだ。
時間がどれ程経過したかは定かではなかった…不意に玄関が開き、中からコートを着た男性が姿を現した。部下の側に立っているエイプリルの姿を認めると、軽く頭を下げる。かなり歳のいった声で、
「失礼、お嬢さん」
と言うと、彼は部下を後ろに伴い、エイプリルの前を通り過ぎていった。
二人は待たせておいた車に乗り込むと、市中心部の方へと車を走らせた。エイプリルはそれを少し見送ってから、屋敷の中へと入った。
「デューター?」
後ろ手に玄関のドアを閉める。室内は暖房が効いているが、せいぜい摂氏20度前後だろう。デューターは寒さに鈍感なのだろうか。少なくとも、エイプリルには少し寒かった。
廊下や右手の階段には、人影が一切なかった。コンコンと壁を叩いてデューターを呼んでみるが、足音も何も聞こえてこない。
左手のドアを開けてみると、そこは居間だった。まず目につくのは、ローテーブルとソファに山の様に置かれた服やら何やらで、彼女が窓の側に立っているデューターに気づくのが、ほんの少しだけ遅れた。
デューターは立ったままの姿勢で、何やら手紙のようなものを呼んでいた。エイプリルはすぐ側の壁を軽く叩く。その物音で、彼はようやく顔を上げた。
「グレイブスか。何をしに来た?」
「ちょっと、様子を見に。明日、ボストンに帰るから」
ちなみにこの3日間、やはりと言うか何と言うか…デューターは一度もエイプリルをホテルに訪ねて来なかった。
「はい、これ」
エイプリルは抱えていた袋を渡した。デューターがその中身を見て、そしてエイプリルをじっと見つめる。中身はパンと芋だった。
そして、真顔で言った。
「…お前はこんなに食べるのか? アメリカ人は食べる量が半端じゃないとは聞くが…」
「ホットドッグ早食いの選手でもない限り、いくら何でもこんなには食べられないわよ。これは貴方に持ってきたの。ろくに外出してないんでしょうし」
「そうか…助かる」
デューターは手紙をローテーブルに置いて、麻袋を持って何処かへと消えた。エイプリルは手紙の内容をちらりと見たが、きちんとタイピングされた文面から見て、手紙ではなく、書類か何かの様だ。
デューターはすぐに戻ってきた。
「それで、明日の便で帰るのか」
「それは今日の成果次第。今日は、あたしは仕事で来たの」
エイプリルはコートを脱いで、ソファに腰を下ろした。デューターは例の書類を封筒に入れ、棚の上に置いた。
「デューター。貴方、ヨーズア・シュナイダーという人を知ってるかしら」
デューターが顔を上げた。
「それだけじゃ解る筈ないだろう。『シュナイダー』なんて名前の男が、世の中に何人いると思ってるんだ」
「今回の依頼人の祖父にあたる人。隣の通りで洋装店を営んでいたけど、先の戦争でアメリカに移住したそうよ。その時、シュナイダー氏は幾つか持ち出せなかった品を、近所の知り合い達に託したそうなの。肝心の本人が亡くなってしまったから、その知り合いって言うのか誰なのか、確かな情報がないのよね」
「…」
突然の話だったが、デューターはそれに興味を持った。
「だけど、氏の遺した日記によると、この辺りの同年代の人と一緒に骨董品市に出かけるのが趣味だったみたい。日記に幾つか知り合いの名前が登場するのよ。何人かの知り合いは見つけたんだけれど…一人だけ見つからない人がいるの。貴方と同じ名字の人。日記の中では『デューター』って呼ばれてる」
「…それなら、祖父の知り合いかもしれん。祖父はよく骨董品市に出かけていたからな」
デューターは立ち上がった。
「祖父の遺品の内容は良く把握していないが…何を探してる?」
「見つかっていないのは、モディリアーニが1点だけよ」
それはまた、随分と貴重な品である。命を懸けても持ち出す価値があったかもしれない。だが大事にしているからこそ、持ち出して当局に没収される危険より、情勢が安定するまで隠しておく方を選んだのだろう。
「…そんなもの、うちにあったか…?」
デューターが2階へ向かうのに、エイプリルがついて行った。階段を上がる時、やや不自由そうに手すりを掴んでいるのを見て、エイプリルは首を傾げた。
「怪我したの?」
「何がだ?」
「脚よ。どうかしたの」
「弾丸が入ったままになっていて、違和感があるだけだ。近いうちに医者に取り出して貰うつもりだから、心配するな」
「…」
「どうした」
「いいえ。ただ、つくづく命冥加な人だと思っただけ」
脚の何処を銃撃されたのか知らないが、よくもまあ生きていたものである。脚は頭や胸部と同じくらいの急所だ。脚の太い動脈をやられれば、まず、助からないと言うのに。
「…一度、当局がここを捜索しに来たからな。そのモディリアーニの絵とやらもその時に見つかって、廃棄された可能性もある」
「その絵が家の持ち主の貴方も知らないような場所にあるのなら、当局に見つけられたとは思えないけれど?」
「…カビが生えていないといいが…」
真面目な顔で、デューターはそんな不吉な事を言ってのけた。書斎に入って、室内を見回す。
「あるとすればここか、母の部屋だろう」
デューターはそう言って、まず書斎から探し始めた。本棚を動かして、裏に何もない事を確かめる。
「あたしも手伝っていいかしら」
エイプリルは一度訊いた。ここはデューターの家なのだ。彼の承諾なしに探し物は出来ない。
デューターはエイプリルの着ている仕立てのいいスーツを見た後、こう言った。
「埃まみれになるぞ」
「平気よ、どうせホテルの部屋までは、上からコートを着てるんだもの」
そう言って、彼女も本棚の裏を探し始めた。
「グレイブス」
「何?」
「これはお前の専門分野だろう。絵を隠すなら、普通、どうやって隠すものなんだ」
別に特別絵画に詳しい訳ではないが、絵の扱いなら慣れている。
「そうね。絵を運ぶ時は、大抵は額から外して丸めて、丈夫な筒に入れるわよ。モディリアーニみたいな近代の画家の絵なら、同じように隠すんじゃないかしら。何かあった時に持ち出しやすいし」
「それじゃ、本棚の裏を探しても仕方がない、という事か?」
「そうでもないわ。額から外さないで保管しておく可能性だって、十分あるし…」
要は、怪しい所を片っ端から探すしかない、と言う事だ。
2人はそれぞれ書斎の中を探し始めた。エイプリルがソファをそっとひっくり返してみる。ヒールのある靴だと繰り返ししゃがんだり立ち上がったりするのには不便で、捜し物に思いの外手こずっていた彼女は、靴を脱いでしまった。
「ところで、デューター」
「何だ?」
デューターは天井裏に半分頭をつっこみ、そこを探していた。
「下の、あの服の山は一体何なのよ?」
「あれは引っ越しの準備だ」
「…ああ、なるほど。それで外務省の役人が来てたのね」
やはり、どんなに減刑されても、国外追放は免れなかったらしい。
それでも収容所で20年以上の強制労働を強いられるよりは、ましに違いないが…。
「貴方が引っ越した後、この家はどうなるのよ」
「没収される事になるだろうな」
だからああして、持って行くものを決めているのだ。
「それで…何処に行く気なの?」
「ワシントンD. C.だ。議員がアメリカ当局と話をつけて、CIAの下部機関での仕事を斡旋してくれた」
「D. C.? っていうか今、CIAって言わなかった?」
エイプリルの胸に疑念が過ぎった。アメリカ当局が元SS隊員に紹介したという『仕事』の内容がどんなものであるか、彼女には漠然とだが想像がついたのである。具体的に何をするのかまでは知らないが、職務内容が綺麗でない事は確かだ。そうでなくても今回の戦後処理に絡み、裏ではCIAとナチ党員の繋がりが囁かれている。
「どんな仕事か、聞いたんでしょうね」
まるで母親みたいな口調になってしまった。
「文書を翻訳するだけの事務的な仕事だと聞いているがな。実際に何をやらされるかは、行ってみなければ解らないだろう」
本当に言葉通りの事務仕事なのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
だがいずれにしろ、もう、デューターはこの国にいられないのだ。
「……あったぞ、これか」
デューターが天井に上がって何かごそごそしていた。
しばらくして、にょっきりと天井裏から金属製の長い筒が差し出された。エイプリルがそれを受け取るとデューターは降りてきたが、その髪に古いクモの巣をぶら下げていた。
「天井裏の梁に、溝を薄く掘って隠してあった。中身は?」
「ちょっと待って」
エイプリルは手袋をした。防寒用のものだが、今はこれしかないのだから仕方ない。
机の上に筒を置き、その中身を注意深く取り出す。中身の絵の特徴で、一目でそれと判別した。
「本物なのか?」
デューターはやや疑わしそうだった。自分の家の天井裏にモディリアーニがあれば、誰だって最初は疑ってかかる。
「そうね…モディリアーニの絵だとは思うけど、本物かどうかは。ちゃんとした画商に鑑定してもらわないといけないかしら…あら」
幸運なことに、筒の中には鑑定書も同封されていた。
「『ヨーズア・シュナイダー氏所有 モディリアーニ1点』…間違いないみたいね」
エイプリルは鑑定書からデューターに目を移した。
「一応訊くけど、持って行って構わないわよね」
「構わない。祖父は死んだし、元々うちの物じゃないからな」
エイプリルはほっと安堵の息をついた。
「ほんと、助かったわ。これで予定通り、明日の便で帰れるもの……って、何?」
デューターがぽんぽんとエイプリルの頭をはたく。
「埃まみれだ。だからよせと言ったのに」
「こんなの平気よ。貴方こそ、頭にクモの巣貼り付けてるわよ。あーもう、大丈夫だってば」
エイプリルは立ち上がった。と、その時、一階の玄関で声がした。
「郵便か…」
デューターは下に降りていった。
エイプリルは書斎を元に戻し、絵を携えて降りていった。
デューターは玄関先で速達の表面を読んでいた。。
「それじゃあ、あたしは帰るわね」
エイプリルは自分のコートを取ろうとしたが、ふと気づいて、バッグの中から手帳を取り出した。それにさらさらと書き付け、デューターに渡す。
「これが、あたしの実家の住所と電話番号。家にいない事が多いけど、伝言を残してくれれば、こっちからかけ直すわ」
「…」
「一度くらいは訪ねて来てよ。例の物も返したいの」
「…分かった」
エイプリルは翌日の便でボストンへと帰った。
デューターがアメリカへと渡航したのは、その二ヶ月後。まだ晩冬の寒さが残る季節の事だった。
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Gleich und Gleich(2)
この話を書いていて異常に疲れるのは、カタカナ語を入力する時。作中ではドイツ語で話しているのですから、英語で書くと気になる所が出てきます。「『ソファ』じゃなくて『ゾーファ』」だとか、「『テーブル』じゃなくて『ティッシュ』」だとか、あんまりやるとキリがないんですけどね…、