Gleich und Gleich(1)
冬のベルリンになんか、絶対に来るものではない。
1945年の12月、エイプリルは身を以てその事を思い知った。ボストンの冬に比べればこちらの冬は温暖な日が多いが、秋ならともかく、雪の積もったベルリンの、とくに郊外の風景は絵にならない。しかも終戦後の不況のせいか、ただただ荒涼としている。
車の中では運転手が、30分間も車の外にいる彼女を気遣う視線を向けてくる。それはありがたい事だが、もう少し経てば待ち人が出てくる…筈…だが、30分待っても一向にその気配はない。時間を間違えただろうか?
冷たくかじかんだ手を吹きさらしの頭へと伸ばし、少し髪を整える。その長さは結局、18の時と殆ど長さが変わっていない。若干伸びた位だ。おかげで母親には『子供っぽい』と口酸っぱく説かれているが、決して変な髪型ではない筈だし、整えやすくて邪魔にならないからこれでいい、と、彼女本人は納得している。従姉も似合うと言ってくれている。
体格も、髪型と同様に著しい変化を見せるような事はない。だが本人は、少しは女性らしい体型になったと自負している。…あくまでも、少しは、だが。
頭の上には灰色の空、目の前には鉄条網を張り巡らせた高い壁が聳えていた。周囲にはエイプリル達の他に一般人の姿はなく、ロシア人が軍用車に乗って通り過ぎていったきりだ。あのふかふかの毛皮で出来た帽子、暖かそうだったが、頼んだら貸してくれただろうか? こちらがアメリカ人だから無理かもしれない。そもそも自分はロシア語が話せないし。
堅牢な壁といい、警邏の車といい、まるで刑務所のような警戒ぶりだったが、実際、そうなのである。詳しい事まではエイプリルも知らないが、戦犯収容所の1つだ。
門の通用口にはこれまたロシア人の兵士の姿があったが、その扉が開いた。
一瞬だけ、エイプリルは理由もなく身を固くした。最も、冷え切った身体はそれ以上固くなりようがなかったが。
中から人を送り出すという用を済ませると、即座に通用口は閉まった。
少しだけエイプリルは目を見張った。デューターの変貌が激しかったからではなくて、むしろその逆だ。薄汚れた黒いコートを着て出てきたデューターは少しやせている程度で、他に変わった点はなかった。7年の間に彼についての記憶が薄れていなければ、今年で34歳になる筈だが、特に老けたとも感じない。薄茶の瞳は、あの銀が散る特有の瞳だった。
デューターの視界にはすぐに、停まっている自動車と、その側に立っているエイプリルの姿が捉えられる。彼は、エイプリルが迎えに行くとは知らない筈だったが、さして驚いた様子は見せなかった。つかつかと怒ったような足取りでやってきて、そしてこう言った。
「どうしてこの寒い天気に、車の外に出て待っているんだ!? 中で待っていればまだ暖かいだろうに」
「あなたの…」
言いかけてエイプリルはくしゃみをした。
「…あなたの『お友達』に、『10時』って聞いたから、10時に出てくると思ってたのよ! 普通、10時半だなんて思わないわよ」
「30分も外で待っていたのか! ああ、もう、ベッケンバウアー、あの野郎、適当な事言いやがって…」
デューターは独りで毒づいた。自分を収容所から釈放するよう手配してくれた議員に対して『野郎』はないだろう。エイプリルは心の中でつっこむ。
「とにかくこれでもしろ! アメリカからわざわざ来た君に、こっちで風邪でもひかれちゃたまらない」
これでも首に巻け、と、デューターは数少ない荷物の中から謎の灰色の布を出す。
「いいわよマフラーなんか…ちょっとやだ、それってタオル!?」
しかも最初から灰色なのではなく、汚れて灰色と化した代物だ。
「ドイツ人ってタオルをマフラー代わりにしてるの、それとも、それがあなたの家の家風なの?」
「どちらでもない。ここの収容所じゃロシアの基準で寒さの程度を考えてるのか、単に金がないのか、満足に防寒具も揃ってなかったんだ。他に代用出来るものなんかあるか?」
「し、信じられないわこんなに寒いのに。それで大丈夫なの、他の人達?」
「今月中には揃うんじゃないか。そうじゃなかったら毛布を身体に巻いて歩いてるかもしれん」
コンコン、と、サルデーニャ人運転手が窓を叩いて顔を出した。
「あのー…お客さん?」
一体、いつになったら車を出すつもりなのだろう。そう言いたげな運転手の目。
とりあえず2人はそれぞれ後部座席に乗り込んだ。エイプリルは運転手に行き先を告げて、車を出させた。
「…ひょっとして、30分も遅くなったのは、支度してたせい?」
「準備は5分で済ませた。手続きとチェックに少し手間取ったんだ。…待たせて悪かったな」
「いいわよ。あなたに髭も剃らないまま出て来られたら、夢にうなされそう」
「…頭の中でアラブ人のような髭でも想像してるんじゃないだろうな。収容所じゃ3日毎に剃っていたぞ」
「具体的に想像させるような事言わないで」
エイプリルもデューターも、ドイツ語があまり理解出来ない運転手が、バックミラー越しに2人を訝しげに見ているのに全く気づかなかった。これが往来だったら、さぞかし騒がしくて恥ずかしい2人連れとして、道行く人々の注目を集めた事だろう。
…と言うか、これが7年振りに再会した時、普通の人々が交わす会話だろうか。
「グレイブス」
「何?」
デューターは正面を向いたままだった。
「どうして俺があそこにいると分かった?」
…それを最初に訊くのが普通ではないだろうか。エイプリルは内心で呆れた。
「…知り合いのボブが、逮捕されたナチ党員のリストを何処からか手に入れてくれたのよ。そうしたらあなたの名前が見つかったの。最も、階位を剥奪されていたなんて知らなかったから、見つかったのは本当に偶然だったけれど。あなたのお友達に照会してくれたのもボブよ」
そこまで言って、エイプリルは言葉を切った。
「ドイツに来た用件は?」
「仕事よ」
デューターの迎えはそのついでだ。彼を自宅の元に送り届ければ、エイプリルはホテルに戻り、熱いシャワーでも浴びさせてもらうつもりだった。その間、幾つか訪問する所もある。
「そうか」
デューターはそうとしか言わなかった。彼の関心は大戦の傷痕の残る町中へと向いていた。
「言っておくけれど、ここよりもひどい状態の都市や国は幾らでもあるわよ」
「…グレイブス、アメリカはどういう様子だ?」
「別に何もないわ。そうね、大統領が急に替わって、DTがインフルエンザで入院したくらいかしら」
「あの2人はどうしている? お前の相棒…DTと、あのフランス人の…」
「レジャンは亡くなったわ。乗っていた船が誤爆されたの。DTはコーリィ…奥さんと子供と元気にやってる。念の為言っておくけれど、もう彼はあたしの相棒じゃない」
デューターが少し意外そうな顔をした。何を驚いているのだろう、この男は。エイプリルはそう思った。
「元々2年間の約束だったのよ。それに彼、もう、『妻帯者』プラス『子持ち』になっちゃったんだもの。流石にそんな男と組む訳にいかないでしょ。何かあったらコーリィと子供達に合わせる顔がないわ」
「そうじゃなくて、まだあんな危険な真似を、しかも1人で続けているのか!?」
「あ、あんな真似はないでしょ! 大体、危険も何も、それはあなたと組んだあの時だけの話よ。普段のあたしはもっとスマートにやってたの。今でもそうよ」
ここにDTがいたら、すかさず言っていただろう。『ウソつけ』と。
「…ちょっと待て、まさか、未だに独身じゃないだろうな?」
「独身よ」
エイプリルはきっぱりとそう答えると、左手の手袋を外して、その薬指に指輪がない事をデューターに確認させた。
「その歳でまだ独身なのか!? それとも、アメリカの金持ちってのはそんなに婚期が遅いのか」
「失礼ね! あたしは25歳で、あなたに比べればまだ若いわよ」
あくまでもデューターと比較すれば、の話だ。従姉を始めとする同年代の女性は、誰も彼ももう全員夫を持つ身をなっている。
「大体、あなただって独身なんでしょ」
「逃亡生活の中で結婚してる暇があったと思うか!?」
エイプリルが言い返そうとした時、車が停まった。目的地、デューターの自邸に到着したのだ。
運転手が降りて、左後部座席のドアを開ける。
車から降りたデューターは、もう戻る事はないとさえ覚悟していた自分の屋敷を黙ってちらと見上げた。
18世紀来の旧い屋敷は、冬の寒風と、長らく人が住んでいなかった事とが手伝って、陰鬱な雰囲気を漂わせている。今は雪が薄く積もって隠れているが、おそらく秋まで雑草が大層茂っていた事だろう。
戦時中から戦後のかけての混乱の最中にあっても、荒らされた気配だけはなかった。窓1つ割れていない。どれ程人々の心が荒廃しても、ここから物を盗る気にはならなかったらしい。それで正解だ。財産も権力もなく、ただ歴史だけがある家柄であった為、金目になるものは殆どない。
口喧嘩も途中のまま降り立った彼だったが、エイプリルも下車したので驚きの声を発する。
「おい、まさかここからホテルまで歩く気なのか?」
「違いますー。夕食の事よ」
その事については、デューターも頭の中で考えていた。容易に食料が手に入るとは思えない。
だから、今日は諦めて、明日の朝にするか。そう思っていたのだが。
「議員が、出所したらすぐに訪ねて欲しいって言っていたわ。夕食を一緒したいって」
社民党議員が夕食の席に選ぶ場所は、おそらく名の知れた料理店レストラーだろう。終戦後の不況下にあっても、一部の人間が恵まれた食事を得る為のスペース。そこに混じるのは趣味ではないが、これから知り合いの元を訪問しに行く過程で、かつての同志を訪問しない訳にはいかない。
「そうか」
それだけ聞くと、デューターは早々に門の鉄格子を押して家に入ろうとした。が、振り返って尋ねた。
「グレイブス。ベルリンに滞在するのはいつまでだ?」
「明明後日までよ」
エイプリルは泊まっているホテルの名前も伝えた。用があるならデューターの方から訪ねて来るだろう。だが、用がないならこの男の事だ、絶対に来ないだろう。
「明明後日か…解った、じゃあな」
素っ気ない挨拶を残して彼は門をくぐって自邸の敷地に足を踏み入れた。
エイプリルもまたすぐにタクシーへと戻って、運転手にムゼウムスィンゼルへ行くよう、イタリア語で告げた。



デューターは中に入って立ち止まった。久々の家の中は、外とは違ったベクトルで荒れていた。もとい、荒らされていた。
泥棒の類ではなく、彼が箱と鍵と共に行方を暗ました後、党が捜索しに来た為であろう。無くなったものはなさそうだが、扉が開いたままのクローゼットといい、裏返されたままのカーペットといい、散々な状態だ。
予想していた事なのでデューターは驚きはしなかったが、ため息をつかずにはいられなかった。独力で元に戻すには丸一日かかるだろう。とりあえず、今日はもう片付けている暇がないので、明日以降の事とした。
暗くなる前に知り合いの所を回るつもりであった為、急いで身なりを整えに奥へと向かう。
書斎の本棚も探し回った様だったが、こちらは居間よりましだった。本が幾つか引っ張り出されたままになっているだけだ。
机の上に家系図がひろげっ放しにされているのにデューターは気づいた。そんなものを見た所で、箱や鍵の情報となりうる事柄はそこからは見出せない。かつては、それらに関する伝承は文章に残されて受け継がれた時代があった。だが、その方法は秘密を守る妨げにしかならず、数世代前から伝承は口頭という形でのみ行われ、しかも女性は他家へ嫁ぐ為に、何も知らされなかった。
今やデューター家の直系の血筋は、系図の中でやせ細っている。男子の直系はリヒャルトしか残っていない。両親は既に亡き人であるし、他の子孫は女性ばかりだ。姉と妹の中には他界した者もいるし、結婚して国外に住んでいる者もいる。だが誰が生きているにしろそうでないにしろ、今の窮乏したドイツに戻ってくる者はいないだろう。
それで良いのだ。禁忌の箱は地上から失われた。この先も歴史の表にその存在が出てくる事はなく、冷たい湖底で眠り続ける事を切に願う。
デューターは系図をしまい込むと、隣室に行った。通行の妨げになる倒れた椅子を起こして、開きっぱなしのクローゼットから服を引っ張り出して着替えた。
その最中、ふと脇の入れ墨テトヴィーレンの存在を思い出した。それこそは『SS隊員』という、彼の決して消えない過去の汚名の象徴だった。彫られた時に内心で感じた屈辱感は、今でも忘れられない。
彼がこの先のドイツの社会に身を置けるかどうかはかなり怪しい。総統フューラーへの忠誠を至上の誇りとする。例え口だけでもそう誓った時に、彼の前途は崩れ去ったのだ。そこに再生の可能性は殆どない。
だが、それは自分自身の意志で選択した結果だった。自分なりのやり方で一族の誇りを貫いた。名誉は汚したかもしれないが、誇りは汚していない。
そこに後悔はなかった。

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完全な私の妄想だらけのお話ですが、年代は間違っていない(筈)です。いつになく、話を書く上でかなりお勉強する必要がありました。日本史らばーな私は、サハヴィー朝辺りで泣かされながら『何で世界史取らなきゃ高校卒業出来ないんだゴルァ!』と思っていたのですが…すいませんT先生。世の中、いつ何がどう役に立つか分からんもんですね…。