生きる定め
昨日から止まずに降り続く雨の中、デインの山道をとぼとぼと歩く一頭の馬があった。馬上の乗り手は二人。どちらも雨よけの外套を目深に被り全身を覆っていたが、後ろに乗っている方の乗り手の手は手綱を握る為に露出しており、その為にそこだけが雨水で濡れ返っていた。
前方の乗り手は意識がなく、後ろの乗り手に両脇から支えられて乗っている不安定な状態だった。馬の足が踏み出される度にか小さい躯がかくんかくんと上下左右に揺れていた。
既に日も落ちかけていたが、雨はひどくなる一方であった。山道の左右にそびえる針葉樹の葉から雨水が流れ、地面に落ちて跳ねる。緩やかな山道の地面は雨でぬかるみ、今にも馬の足が取られそうな状況だった。
かと思うと次の瞬間、馬が右前足を踏み出して小石の上を踏んだその時、小石が滑って馬は前のめりに体勢を崩した。注意していたとはいえ突然の事で、乗り手の手から手綱が離れる。そのせいで前方の乗り手が馬から落ち、水たまりの上に仰向けに倒れた。
その拍子に外套が半ば脱げた。すり切れたぼろの外套の下からは、薄暗い雨天の中でも目映く輝く金色の髪が現れる。容赦なく降りしきる雨がその髪を叩くが、金色の髪の人物は微動だにせず、頭と肩を冷たい水たまりに当てて倒れたままであった。
まだ若い娘であった。透けるような白い肌は血色を失って青ざめているが、容貌は非常に端麗で、その美しさといったら到底ベオクが持つようなものではなかった。
手綱を握っていた男は馬から下りて着地し、その娘を抱き起こしてすぐさま外套で身体を覆ってやった。それから娘を両腕で抱えて立ち上がる。男の体格はどちらかというと細い方だったが、そもそも娘が軽かったので、簡単に抱え上げる事が出来た。
娘にも馬にも怪我はなかった。だが、この山道のひどい有様では、また馬に乗っても落馬してしまうだろう事は目に見えていた。
外套の男は娘を両腕に抱えて歩く事にした。馬を引く事は出来ないので、馬に乗せた荷物は諦めるしかないと見なした。どうせ大した荷物は積んでいないし、大切な物は身に着けているのだから構わない。
しかし馬は主の後ろをついて歩いてきた。ぬかるんだ道を馬が遅々とついて来る為、男は娘を抱えたまま注意深く山道を進んでいった。何度か娘を抱き寄せては外套をかけ直し、娘の顔に雨が当たらないようにしながら歩いていった。
雨が止み、日が暮れて周囲が闇に満ちてきた頃、外套の男はとある屋敷に辿り着いた。末端とはいえ王族の住まいなのだが、城には見廻りの兵すらなかった。話に聞いていなければ、中流貴族の邸宅と言われても信じてしまいそうなこぢんまりとした建物である。外套の男は裏に回り、使用人の通用口の扉を叩いた。その後ろには馬がついて来ていた。
外套の男のノックに答えて扉が開き、番をしている老人が顔を出した。
「ありゃ、またお前さんか。殿下にご用かね」
「はい。お約束したものを持参した、と…そう殿下にお伝え下さい」
外套の男は落ち着いた、耳に心地よい声でそう答えた。
老人は耳が良い代わりに目が悪かった。だから男が腕に抱えている娘の髪や、背中から微かに覗いている白いものには気づかなかった。
外套の男は屋敷に招き入れられ、いつもの部屋に通された。装飾品は絵画が一枚だけという、何とも質素な部屋であった。ベグニオンの騎士だって、ここよりはましな邸宅に住んでいるだろう。
部屋まで案内してくれた侍女はまだ若いながらも頭の良い様で、外套の男やその腕の中の娘の事をむやみに観察せず、部屋の暖炉に火を入れると、男の方にこう訊いてきた。
「何か、身体を拭くものをお持ちいたしましょうか?」
「ええ、お願いします」
侍女が退室すると、外套の男は娘を外套を脱がせてからそっと長椅子に横向きに寝かせた。そうすると、娘の背中から露出している翼が晒された…ラグズの鳥翼族の中でも、鷺の王族である白鷺しか持ち得ない純白の翼であった。
鷺の姫の翼は大体綺麗であったが、ところどころ黒ずんだ古い血がこびりついていた。彼女が身に着けている白い衣服も同様にあちこちが汚れ、土や煤や血がついていた。
男は一応彼女の口に手をかざし、生きている事を確かめた。この白鷺はもう一週間も意識がない状態で、今は落ち着いているとはいえ、一度も目を覚ましていない。いつ死んでも不思議ではなかった。
男は鷺の姫から手を放すと、自分も外套を脱いだ。すると外套の下から現れたのは、漆黒の長い髪だった。前髪の辺りが僅かに湿っているが、髪は殆ど濡れておらずに肩や背中へと滑らかに流れている。男の頬の色は長椅子に臥している白鷺と同程度に白く、そして冷えた為に血色が悪かった。
男の方も白鷺同様、まだ若い容貌をしていた。顔立ちは柔らかく優美で、全体的な雰囲気は鷺の姫と共通するものがある。ただし男の方には、例えようのない陰がまとわりついているが。
男が二人分の外套を丸めて長椅子の背の端にかけたところに、ドアが外から叩かれた。先刻の侍女であった。男は中の様子をなるべく見られないようにドアを細く開き、自分の身体で侍女の視界を覆い、身体を拭く布を受け取った。
「殿下はすぐいらっしゃるそうです。もう少しの間、お待ち下さいませ」
「そうですか、分かりました」
男は侍女を帰してドアを閉めると、静かに長椅子に近づいて絨毯敷きの床に膝をついた。そうして鷺の姫の顔色を看た。
雨に晒された手が触れないように、布を白鷺の髪や顔や首に当てて水気を拭き取っていく。鷺の姫は裸足で、足には包帯が巻かれていた。男はそちらの方も看て、怪我の治り具合を確かめた。包帯に血は滲んでいない。治癒の杖がきちんと効いている様だった。肩や腕にも怪我をしていたのだが、そちらは完全に治っている筈だった。
男は長椅子を動かした。常人より力がないので手間がかかったが、何とか90度くらい動かして、身体の冷えた白鷺に暖炉の熱が程よく当たるようにした。それから自分は別の一人掛けの椅子に腰を下ろし、この館の主が来るのを待った。
それから殆ど間もなく、鷺の姫の目が開いた。彼女の頭が働いて自分の置かれている状況を理解するまでには数秒かかったが、やがて彼女はよろよろと長椅子の上に起き直った。
鷺の姫は緑色の円らな瞳で辺りを見回し、初めて目にする場所を警戒心を以て観察した。それから自分のすぐ近くに腰を下ろしている男に気づくと、小さく悲鳴を上げて身体を震わせた。
男は彫刻のように黙って座していたが、頭だけを白鷺の方に向けて彼女を見た。
鷺の姫は長椅子からおぼつかない足取りで絨毯の上に落ちた。足を怪我しているのでうまく歩けず、彼女は膝で這うようにして長椅子の影に隠れ、そこで座り込んでこちらを見上げてきた。長椅子の肘掛けを掴む指の先からはいっそう血の色が失せ、細い体躯が恐怖で震えていた。
『あ…なた、誰…?』
鷺の姫は唇がこわばり、上手く喋れていなかった。彼らが用いる古代語で呼びかけたのだったが、何を言っているかは男には理解出来た。
彼女が恐怖を堪え、今自分と同じ部屋にいる青年の正体を推し量ろうとしているのが男には見て取れた。嘘のつけない鷺の性そのままに、鷺の姫の顔色には彼女自身の感情がはっきりと表れていた。それに対する男の表情は全く逆で、一切無感情だった。
『…誰なの…?』
「…」
今まで出会った誰とも異なる未知の存在に、彼女ははっきりと怯えていた。しかし未知とはいえ、どういう者かは知識から何となく察せられているようで、彼女の緑色の眼には困惑の色が混じりつつあった。
…蔑みたければ蔑んでも構わない。男はそう思った。
その時、男には鷺の姫が心を読もうとしてくるのが分かった。その力を感じたというのではなく、彼女の顔色からそれを悟った。だから彼は心で白鷺を拒絶した。
心を閉じられるどころか拒絶され、鷺の姫は一瞬身体を大きく震わせた。そういう反応を見せた者が、今までいなかったからだろう。
彼女は男を見つめて固まっていたが、やがて別の事に気づき、自分の手を見た。何かを探すかのように、慌てた様子で辺りを見回す。
男は懐からある物を取り出し、彼女に差し出した。
それは古びた青銅のメダリオンであった。鷺の姫はそれを見ると、はじかれたように男を見上げた。
男は彼女に黙ってメダリオンを差し出していた。彼女は震える白い手を伸ばし、メダリオンに触れた……男は何も言わなかった。
鷺の姫はメダリオンをそっと、男の手から取った。それから両手で懐に抱えるように大事に大事に持ち、小さく安堵の息をついた。そうすると彼女の身体の震えも収まった。
メダリオンはほんのり青く輝いていた。鷺の姫がそれを抱え、口を開く。
……繊細な旋律がその口から紡ぎ出され始めた。優しい響きが部屋を漂い、メダリオンの青い輝きを落ち着けていく。
男は鷺の姫から目を背け、瞼を閉じた。

――――――――もう一度、歌って。

そんな声が聞こえた気が、男にはした。
空耳の筈だった。自分にはもう聞こえる筈がない。その力はとうに失われたのだから。
男は心の中で答えた。

――――――――お許しを、女神よ。

「…本当に来たとはな…」
その声に反応して、男は静かに目を開いた。
部屋のドアが開き、そこに長身の青い髪のベオクの男が立っていた。それがデインの王子、アシュナードであった。彼の激しい野心に溢れる細い目が男を見て、それから鷺の姫を見る。彼女の方はアシュナードに見据えられると身体を震わせ、縮こまってまた震え始めた。
「殿下。お約束通りのものを、お持ちしました」
黒髪の男は椅子から立ち上がり、アシュナードに頭を下げた。
「賢者か…お前が我に教えたあの誓約、予想以上にあっさり父王に結ばせる事が出来たぞ」
「それはよろしゅうございました。それでは…先日の私の提案、気に入って頂けたと思って良いのでしょうか」
「ああ、気に入ったぞ、この上なくな…」
アシュナードはにやりと口元を歪ませ、鷺の姫を見た。
「あれが、件の白鷺か」
「はい。殿下、どうか…力ずくで歌わせるようなことは、なさらぬように。死んでしまっては、元も子もございませんから」
「鷺はあまりに脆いからな。怒りに駆られた民衆ごときにたやすく潰された程に。貴様が連れてきたあの鷺も、今にも死にそうな顔色をしている」
「病み上がりですし、ここの気が体質に合わないのでしょう…鷺は繊細な生き物ですから。どこか、別の場所に移されるがよいかと存じます」
アシュナードは男の意見について何も言わなかった。
「…それにしても…世界の気を歪ませるという【滅亡】の呪歌。いっそ、あの虐殺の時に鷺どもの誰かが歌ってしまっていれば、面白いものが見られたかもしれぬな。我の野望のちょっとした番狂わせぐらいには、なったかやもしれぬ。くくく…」
「…」
アシュナードは、白鷺が両手で胸に握りしめている錆び付いた円盤を目にすると、男に訊いた。
「あれが、メダリオンとやらか?」
「はい」
「貴様は、ベオクはあれに触れられぬと言っていたな…」
「はい。下手に取り上げるよりは、あのまま白鷺に持たせておくがよいと存じます」
「では、お前の申す通りにするか。…ところで、賢者よ」
「はい」
「初めてお前と会った時……お前は、我がお前の提案に耳を貸す代わりに、誓約の結び方を我に教えたな」
「はい」
「今度は何を望む? 我がメダリオンの邪神を復活させる代わりに、お前は何を我に求めるのだ?」
「何も、ございません」
男は即答した。
「ほう…?」
「私の望みは殿下と同じ。メダリオンに封じられし邪神が蘇り、世界に変化が起こればそれで良いのです」
アシュナードは男の答えに満足し、鼻で笑った。しかし男を信用している訳ではない事は、男の方も十分理解していた。
一方…鷺の姫は、男の返答を聞いて驚愕した。彼女は何か言おうとして口を噤み、円らな瞳をいっそう見開いて男を見ていた。
「…では、私はこれにて失礼致します。あとは、殿下のよしなに」
男はそう言って頭を下げると、外套を手に取った。
それから男は最後に、鷺の姫を見た。

『…さよなら』

その古代語の言葉と共に、鷺の姫の瞳からは涙が一滴零れた。
白皙の美貌が石像のように青ざめ、その上を透けた雫が流れ落ち、筋を残した。
男は黙って部屋から退室し、扉を閉めて立ち去った。



…絶対に。
あなたが【解放】の呪歌を歌うことはないだろう。例え全てを失ったとしても。
あなたに歌わせる事も出来ないだろう。例えアシュナード王であっても。
だが、それでもいい。
【解放】の呪歌がなくとも、戦乱を起こせば女神はお目覚めになる。むしろその方が躊躇無く女神が裁きを下してくださるだろう点で、私の望みにかなうのだ。
だから、あなたはそれまで生きればいい。
しかしアシュナードが如何にあなたを丁寧に扱ったとしても、森を離れ、恐怖と絶望に支配された心のままでは生きていけないだろう。
だから、あなたはいずれ死ぬ。

もう、あなたも悟っているのだろう。
あなたは生きて、そして、死ぬのだ。
私の願いの為に。

そんな不条理を、あなたは涙一つで受け入れた。
…それも鷺の性だというならば、私は本当にもう、鷺ではなくなったのだろう。

この痛みさえ、受け入れられないのだから。



(終)

セフェラン様はどういうつもりでリーリアをアシュナードに引き渡したのか。

…散々唸って考えたのですが、少なくとも「【解放】の呪歌を歌わせる為」ではないと思うのです。
だって、どう考えても無理です。普通は歌いません。そもそもリーリアが謡っても意味ないですし。
だからといって、か弱い鷺に力ずくで歌わせようとする訳にもいきませんし。
国も家族も失い、もう失うものが無くなってしまった娘さんを脅迫する手段なんて、ありませんし。
メダリオンを持たせておく為かな、とも思ったのですが、包めば他の人でも持てるんですから、その理由は除外されます。

「メダリオンだけをアシュナードに渡して、リーリアの方は放っておく」という選択もあった筈なんですよ。アシュナードが勝手に白鷺の生き残りを探せばいいんですから。

ならば何故、セフェラン様はメダリオンにリーリアというおまけを付けたのか。
…どうも「自分の話に真実味を持たせ、アシュナードの興味を引くため」としか考えられないんですよ。
つまり、セフェラン様の野望におけるリーリアの利用価値は、その程度しかなかったわけです。
自分の望みの為に、同族(セフェラン様の心理としては『同族だった』)を犠牲にしたわけです。
…悪です。

多分セフェラン様は、リーリアが長く生きられないという事も解っていたと思います。
同じ鷺ですし。
セフェラン様は旅をして、ベオクの世界を見ていますし。
ですから、リーリアをアシュナードに引き渡すという事は、彼女を殺すも同然だと分かっていた筈なんです。
…悪です、ほんとに。

しかし、リーリアの死は悲しかったと思います。自分で招いた事ながら。
…セフェラン様、自分の気持ちに正直すぎますよ。