ヴァネッサがルネスを訪れた経験は皆無だった。
幼少の頃から姉に憧れて天馬騎士をひたすら目指していた彼女は、生まれてこのかた、暇があったなら、その訓練に勤しむ一方で、フレリアの外の国に関心を向けた事はなかったのである。
それでも、エフラムとエイリークの2人を見ていると、ルネスが平穏な国であった事は何となく想像出来る。ひょっとしたらこの王国は、フレリアに匹敵する程に美しい国だったのかもしれない、とも思う。
だが、今こうしてルネス城内を歩きながら周りを見回すと、そこには、かつての栄光や平和の名残は微塵も残されていないように見えた。残っている名残と言えば、柱の傷や壁の血の痕など、そこにあった激戦を示すもののみだった。
ルネス城を占拠していたグラド兵の指揮官は、元はルネスの聖騎士だった…という噂をヴァネッサは聞いている。それは本当の事なのだろう。
城へ攻め込む前にも、また戦っている最中にも、ヴァネッサがフォルデの姿を見る事はなかった。
最も、彼女の心配など必要ないのだ。彼は新米騎士とは違う。自分で判断し、生き延びる事を知っている手練れの騎士だ。少なくともヴァネッサにとってはそうだった。平生はどこか気の抜けたような、眠そうな顔をしているくせに、いざ武器を取れば人が変わったような鋭い捌き方で敵兵を倒す。
ヴァネッサにとっては、フォルデはほぼ永遠の謎だった。自分をいつも戸惑わせる存在。あの優しい目に見つめられると、途端に逃げ出したくなる。
事実、よくそう行動してしまう。はっきりした理由もなく、彼の前から逃げてしまう。
目が合うなり背中を向ける自分を一体彼がどう考えているのだろう…そう、ヴァネッサは考えながら歩いた。
薄汚れた窓の外には荒廃した城の外苑がある。海は見えない。風もあまりない。海鳥も空を飛んでいない。
ここでは、彼女は完全な異国人だった。
勿論、ルネスだけではなくカルチノでもジャハナでも、彼女は異国人には違いない。
だが、ここではより強く自覚させられるのだ……ここは彼女の帰る場所ではないのだと。
その事を切なく感じる自分が自分で理解出来なくなってきている。
どうしたい訳でもない。進みたくも退きたくもない。それでいて、今のままでいるのは少し辛い。
戦争は終われば、ヴァネッサはシレーネと共にフレリアに帰還する事になるのは間違いなかった。と言うより、他にどんな選択肢があるというのか。
どうするか、何度か悩んだ。
何がしたい訳でもない。
ただ…天馬騎士になる事は幼い頃からの夢だったのだ。自分にはその目標しかないのではないか。特にどんな取り柄がある訳でもない。ひたむきに努力を続ける事には自信があるが、それだけだ。他には何もない。だから、こればかりはどうにも捨てられない………。
「……捨てられなくて良かった」
ヴァネッサはその声を聞きつけて顔を上げた。廊下の角で立ち止まり、前後を振り向くが、何人の姿もない。誰か、若い女性の声だ。
「これは気に入っているので」
「俺もこれはいいと思いますよ」
女性の声に受け答える男性の声を聞くなり、さっとヴァネッサの身体が強ばった。
話し声はヴァネッサの行く手の方から聞こえてくる。そちらに彼女は歩を進めた。
「…ひょっとしたら、小さいから、値打ちがないのだと思われたのかもしれませんね。こういう物は、大きければ大きい程いい、値段も張るんだ…っていう考え方をする人間も結構いますからね」
「そうなのですか、フォルデ?」
フォルデと、そしてエイリークだった。2人で壁の何かを見ながら話をしている。
2人が見ているのは一枚の絵画だった。小品で、何が描いてあるのかは、ぱっと見では解らない。
「エイリーク様。これって、元からここにあったんでしたっけ? 確か、この絵の隣に、かなり大きい宗教画がありませんでしたか?」
「ええ。でも、それは占領中に奪い去られてしまったみたいです」
「そうなんですか」
フォルデもエイリークも話に夢中で、ヴァネッサには気づいていない。
「にしても…どうせならそっちの絵を持ち出すついで…って言うと変ですかね。でも、その時にいっそ、この絵も何処かの部屋に移してくれれば良かったんですけど」
フォルデはそう言って、残念がるようなため息をついた。
「そうですね…こんな所になかったら、戦闘の時に破損する事もなかったのでしょうが…」
その絵は、右上部分が大きく破れていた。
「何とか直せませんか? いえ、今でなくても良いのです。この戦が終わって、ルネスへ再度戻って来てからでも」
「やった事はありませんが、やり方そのものは知ってます。見た事がありますから。けれど…」
フォルデは絵の破損箇所を指さした。
「…この剥がれた部分に何が描いてあったか、俺の記憶がはっきりしないんですよね。いや、下絵は多分描けます。前に、この城の絵を全部、模写させていただいたので…模写といってもデッサンだけですけど。それは残ってますから、下絵は描けます。でも、色まではどうも…記憶に自信がなくて」
そこまで言ってから、フォルデは傍らのエイリークの方を見た。そこで初めて彼は通りがかったヴァネッサに気づいた。だが、彼はエイリークとの話を続けた。
「エイリーク様、覚えておられます? どういう色だったか」
「ええ、まあ…」
「それなら、何とかなるかもしれませんね」
ヴァネッサが聞いた2人の会話は、そこまでだった。
その痕は、彼女は階段を下りて外へ出て行ってしまったからである。
だが、2人の会話はそのすぐ後に終わった。
フォルデはその場でエイリークと別れ、外に足を向けた。一旦立ち止まったが、すぐに再び歩き出した。
訓練場へと繋がる扉をくぐって外に出た。訓練場はあちこちに燃えた枝の後やら天幕の残骸やらが残っている。グラドは雇った傭兵を訓練場で寝泊まりさせていたのだろう。城の奪還直後には、訓練などには使えない有様の場所だったが、今はもう、半分くらいは片付け終わり、臨時の馬屋の設営が始まっていた。
その光景をヴァネッサが眺めていた。ぼうっとした目つきだったが、フォルデに気づくとさっと顔色を変える。特別な反応には違いないが、出来る事なら、もっと異なる類の反応を見せて欲しかった。これではまるで、怯えられているような気がする。
何かしたかなー…?
…あー、したな。この間のあれかな、やっぱり。
「あれさ…」
フォルデが訓練場を指さした。
「何を造ってるのか知ってるかい?」
「ええ…宿営地だって聞いているわ。兵舎だけではどうしても足りないそうなの」
「ああ、なるほどね。この軍も気がつかない内に数が増えていってるからなあ」
幾人かの兵が、地面に打ち立てられた柵に、馬の手綱を繋いでいる。ふっと思いついて、フォルデが質問した。
「君やターナ様の天馬はどこに繋いであるんだい?」
「他国から急使が来た時の為に用意されている馬屋があるでしょう? あそこに繋いであるわ」
「ふん、一緒に繋いでおければ、当番の奴が世話してくれるんだけどな」
「仕方ないわ、あの子たちは、主人以外の世話は受け付けないもの。何も知らない新米が、うっかり噛まれてしまうような事になったら大変よ」
「ああ、確かにね」
「…」
ヴァネッサは何とも言い表しがたい緊張感を味わった。今2人がいる場所は、宿営地にいる者達からはっきりと見える場所である。フォルデと2人でいるのを他人に目撃される事に、後ろめたさにも似た感情を抱く。そんな彼女の内心が、何処までフォルデには見えていたのかは分からないが……。
「…ふあ…」
唐突にフォルデが間の抜けた声を上げた。ヴァネッサが彼の方を向くと、眠そうな表情をしていた。
「今のは、あくび?」
「ん? ああ、うん」
「…信じられないわ、まだ日も傾いてないのに…貴方って、どうして、人前でそんなに気の抜けた…というか、しまりのない態度なの?」
「駄目かな?」
「貴方って本当に、緊張感が足りなすぎるわ。王子はもっと……」
ヴァネッサの言葉は途中で途切れた。反射的にフォルデから目を逸らし、彼の表情の変化から目を背ける。
ヒーニアスが何なのだろう。彼とフォルデを比較したところで、何の意味もない。どうして、比べたりなど。
「…」
…気まずい沈黙が降りた中、フォルデ1人が頭をめぐらす。
暫時後に、ヴァネッサが口を開いた。
「…あの…」
「ん?」
「いつも、ああいう事を頼まれているの?」
「ああいう……ああ、絵の事か。いや?」
「そうなの……」
「うん。この国にだってお抱えの画家はいたさ。フレリアだってそうだろ?」
「多分、いるんだと思うわ」
「俺の絵は、趣味の域を出ていないさ」
「でも、絵を描くのは好きなんでしょう?」
「うん」
不意に、風が吹いた。
ルネスの風。
この国の匂いがする風。
ここは彼のいる国。
…そして、自分のいない国だ。
彼が帰る場所はここにある。自分の帰る場所も、また、別の場所にある。
戦争にならなければ、ヴァネッサが国を出る機会はおそらくなかっただろう。よしんば、そんな機会があったとしても、フォルデと出会う可能性がどの程度だったか…。
「そのうち、君を描くよ」
「えっ、私?」
ヴァネッサは驚いて顔を上げた。
「うん。描いた事、なかったろう?」
「ええ、まあ…そうだけど…」
フォルデが、不意に別の方向を見ながら少しだけ口を開けた。あ、とでも言いそうな様子を見せて。
彼が見ていたものは…シレーネとギリアムと、そして、ヒーニアスだった。
ヒーニアスの姿を見るなり、ヴァネッサの肩に緊張が走ったのをフォルデは見た。その肩が、ヒーニアスに名前を呼ばれるなり、びくっと震えたのも。
「はいっ!」
不自然なくらいに大きな返事をして、ヴァネッサが3人の元へ駆けていく。
ただ見送るだけだ。
あの背中を。
「ああ、兄さん、こんな所にいたんですか」
フランツとカイルがやって来た。
「…では、そういう事にする。シレーネ、ターナにこの事を伝えてくれるか」
「はい、分かりました」
ヒーニアスはギリアムを伴い、エフラムのいる所へととって返して行った。
「ふう、それじゃ、ターナ様を捜さないとね」
シレーネは妹の方に向き直った。
「ヴァネッサ、ターナ様のいらっしゃる所は分かる?」
「さあ…そういえばお見かけしていないわ」
そう言いながらヴァネッサはターナの姿を求めて周囲を見回し、そして、止まった。
フォルデと目が合った。
フランツとカイルと話をしていた彼と視線が合い、そして…フォルデが笑った。
その優しい笑顔に射すくめられた心地がした。
「ヴァネッサ?」
「何でもないわ…姫様を捜しましょう、姉さん」
ヴァネッサは姉を促して、フォルデから目を背けた。
あの優しさがいたたまれない。
どうしてそんなに優しく笑えるの?
私に好きな人がいるって、知っている筈なのに。
背中