ふいうち
星の見えない夜だった。
その日は夕方から雨が降り出した為に、一行は行軍を中断し、付近の廃村で夜を越す事となった。
夕食の出来る前に、カイルとフォルデは馬を繋いである厩に向かった。
「こういう事は、忘れん内にやっておくものだ」
「はいはい」
あからさまにやる気の薄いフォルデと異なり、カイルの気力は空腹時にも減少の色を見せない。
2人は馬に馬草をやる作業を行った。2人では到底すぐには終わらない。それに水もやらなくてはならない。夕食が出来る前に、水を汲みに行く事が出来るかどうか疑わしい。どうでもいいが、腹が減った。
エフラム率いるルネス軍では、馬に馬草と水をやる当番は決まっていない。何ともいい加減な話である。
「今度、エフラム様や将軍に当番制を提案するか」
「でもなあ、主人以外受け付けないのがたまにいるからなー…あだっ!」
噂をすれば何とやらというやつか、フォルデが馬草を持って近づいた途端、一頭の天馬が彼の頭を鼻先で小突いた。否、小突くどころかどげしっどげしっとどついてきた。
「どうした」
カイルが顔を上げる。
「…何だ、ターナ様の天馬にどつかれたのか」
「はあ…? 何言ってるんだよ。こっちがターナ様の天馬だろ?」
フォルデは自分をどついた天馬の、その隣の天馬を指さす。
「こっちではないのか?」
「俺は、こっちはヴァネッサの天馬だと思うけどなあ」
普通の馬の区別なら容易なのだ。が、何故かそれに肌が白くなり翼が生えると、途端に違いが解らなくなる。
あうだこうだと、ある意味どうでもいいような事で2人は議論を展開していると、そこへヴァネッサが姿を見せた。
「…何してるの?」。
「ちょうど良かった。こっちが君の天馬だよな?」
フォルデが自分をどついた天馬を指さす。するとまたもや不興を買ったのか、天馬に再度どげしっどげしっとどつかれる。
「こら、ティターニア!」
ヴァネッサはその天馬の頭をやんわりと押さえて叱りつける。
「そちらが君の天馬なのかい?」
「ええ、そうよ」
カイルの問いにヴァネッサは頷いた。
「って事はつまり、俺が正解か。にしても、随分俺の事どつくんだなあ」
「天馬は総じて誇り高く、主人に懐かない生き物だ」
カイルは一度フレリアに行った経験があるだけあって、詳しい。
フォルデは苦笑しながら隣のターナの天馬に馬草をやる。こちらはどついてこなかったが、その代わり餌があってもすり寄って来ない。本当に、主人以外には懐かないらしい。
「それじゃ多すぎるわ」
側からヴァネッサに注意された。
「えっ、そうなのかい?」
「ターナ様の天馬はそんなに食べないの」
彼女が脇から飼葉を間引いていく。カイルの声が聞こえた。
「フォルデ、俺は水を汲んでくるからな」
「あー」
つい返事をしてしまったが、相棒の足音が去ってしばらく経った後、1人がいないだけで途端に場の空気が気まずくなってしまった事に気づいた。
ヴァネッサは無言で他の馬に飼葉をやるのを手伝った。
「夕食、もう出来たかい?」
「いいえ、まだみたい」
そんな、当たり障りのない話を交わしながら各々作業を続けた。それだけだった。
フォルデは桶を1つ手に取った。3つあるうち、カイルが2つ持っていってしまった為だ。どうせ全部の馬に水をやるには、一往復では到底足りない。カイルが戻ってくるのを待つ必要もない。
「じゃあ俺、水汲んでくるから」
「あの…」
「?」
「聞いていいかしら…?」
意外な事に、ヴァネッサの方に何か用件がある模様だった。
「何だい?」
目を合わせると、彼女は少し視線を逸らした。それが平生の反応だ。
「…どうして?」
「は?」

「…私の…どこが好きなの?」

『好き』という単語を口にする瞬間、彼女の頬がやや朱に染まる。
「わ…私なんか、これと言って取り柄もないし、つまらないし、美人でもないわ。天馬騎士としても半人前だし…」
その間、フォルデはずっと笑って彼女の言いたいことを聞いていた。
「どこが好きとか、そういうのは全然ないな」
「…」
「君がいいって思ったのは『好きだ』って感じたからさ」
…わざわざ言ってしまうと何だかこそばゆかった。
それにしても、最後の『天馬騎士としても云々』の部分は、何というか、彼女らしい発言だなと思った。
「…あ、それと」
「…?」
「えーと…何だっけ」
即座には上手く言えない。
「あ、そうだそうだ。君はつまらなくなんかないし、きれいだよ」
ヴァネッサの表情が更に紅潮したところへ、
「兄さん、カイルさん」
弟のフランツの声がした。呼び声が聞こえた直後にひょいっと顔を出す。
「あ、ヴァネッサさんも。夕食出来ましたよ」
「ああ、俺は悪いけど、カイルの奴が戻ってきてから…」
ヴァネッサはばっと身を翻すと、フランツの横を抜けて走り去ってしまった。何も言わずに。
「…どうかしたんですか?」
フランツはきょとんとした顔で彼女の背中を見る。先程のやり取りは、聞こえていなかったようだった。
「ん?…何でもない」