妹が可愛いと思った事はいくらでもある。好きだと思った事もある。と言うか、それは四六時中だが。
ただ…きれいだと思ったことはなかった。
昼下がりの、ついついまどろんできそうな天気だった。
エイリークは一昨日から始めてまだ終わっていない刺繍を続けている。花弁が多くて複雑なアザレアはがモチーフで、しかもそれが3輪もある為、容易に終わりそうにない。
エフラムは差し向かいに座っていた。珍しくも自発的に本を読んでいる。が…一度めくったページをもう一度読み返している。先程から同じような事の繰り返しだ。どうも、1ページ読む度に、2、3ページ程読み返しているのではないかという気さえエイリークにはしてくる。
よそ見をしていると危うく針が指に刺さりそうになった。布が白いので、指に針を刺してしまうと血がついてしまう。
エフラムが足を組んだ。膝が交差する際、卓の裏に膝がぶつかった。その衝撃で、エイリークが卓の端と腹の間で挟んでいたフープが外れ、床に落ちる。
「あ、悪い」
「兄上ー…もう…」
フープを広いながら、エイリークが不平を表情に表すのも無理からぬ事だ。刺繍糸が針穴から抜けてしまったのだ。また糸を穴に通すのは容易ではない。
「何処まで進んだ?」
そう問われ、エイリークは糸を通す前にフープを見せた。エフラムはそれを手に取らず、少し身を乗り出して眺める。
「ふーん。この間のよりいいんじゃないか。そう言えば、あれはどうしたんだ?」
「まだあります」
あまり良い出来ではなかったが、完成までの労を思うと捨てる気にもなれない。
エイリークは針に糸を通し直す事に挑戦した。が…やはり、上手くいかない。
「そう言えば…兄上」
「何だ?」
「先程から…何をお読みになられているのですか?」
「小説。適当に取ってきたんだが、登場人物が多くて困る」
それで何度も前のページをめくっていたらしい。
エフラムはとうとう挫折したのか、その本を閉じた。
「エイリーク、お前の本を借りていいか?」
「はい。…あ、でも、右端の緑の背表紙の本は、読みかけですから、しおりを外さないようにして下さい」
エフラムは立ち上がって妹の本数冊を物色した。
劇の脚本、詩…駄目だ。どれも興味がない。史書に至っては読破する自信がない。
エフラムは腰に手を当てて嘆息をもらした。たまにやる気を起こすとこれである。いっそ割り切って苦手な史書に挑戦してみるべきだろうか…とも思ったが、やはりやめておいた。
彼の関心は、妹が熱心に行っている作業に向いた。歩いていき、横から手の動きを覗き込む。
紅色のつややかに照る糸を、布に描いた図案に合わせて繰り返し張っていく。いかにも根気の要りそうな作業である。緩慢ながら、紅い花弁の形が明確さを帯びていく様は、見ているだけならなかなか興味深いものがあった。
エフラムは自分が座っていた椅子を取ってきて妹の隣に置いた。そしてそれに座り、刺繍の観察を続ける。
「兄上…?」
「見るだけなら結構面白いな」
「そうですか?」
それきり、エイリークは手元を正確に動かす事に集中し始めた。
ふと、視線が刺繍から彼女の横顔に動いた。午前中にカイル達とやり取りした話を思い出した。
最初の話題は、先日国使としてルネスを訪れたデュッセル将軍の事だった。そしてエフラムが、将軍がエイリークの美しい事を賞賛していた事を話した。エフラムの目にはそうは見えない事を話すと、フォルデは将軍の意見に賛同するような発言をした。カイルも大体、相棒と同意見らしかった。
3人が揃って、エイリークは綺麗だと言う。
そうかなあ、とエフラムは思う。
考えてみれば、今まで何人か同じような事を口にする人物がいた。それは社交辞令の類だと解釈していたのだが。
彼の中では、それが主観であろうが客観であろうが無関係に、エイリークはかわいい。
だが、美人かと聞かれると、首を傾げたくなる。そんな事、考えた事もなかった。
………きれい…だろうか?
頭を横にずらして、なるべくエイリークの面を正面から見ようとしてみる。
「…何ですか?」
明らかな奇行に、エイリークは針を止めて怪訝な反応を見せた。
「少しな。構わないから続けろ」
「はあ…」
エフラムは頭の横側がテーブルにくっつく程の下側からエイリークの顔を覗いた。
「…」
「…兄上。やっぱり気になります。私の顔に何かついていますか?」
「…んー……」
言われてみると、確かに、美人かもしれない。かもしれないどころか、結構美しい。
「エイリーク」
「はい」
「今こうして見て気づいたんだが、お前、実は結構美人だな」
「…は!?」
唐突な発言に、一呼吸遅れてエイリークは目を丸くして喫驚した。
「ご、ご冗談を仰らないで下さい」
「いや、本当に。お前の事きれいだって言う者がいるが、こうして見ると、確かにそうだな」
「…そうでしょうか…?」
エイリークは少し頬を赤らめながら、考え込むような素振りを見せた。
それから時々、エフラムは同じような類の言葉をかける事があった。
だがある頃を境に、ばたりと口にしなくなった。
理由は分からない。
今でも、自分をきれいだと思ってくれているだろうか?
「…兄上」
「んー?」
エフラムの視線は机上の地図上にある。これから行う作戦会議の後に話せば良いのだろうが、そこまで待てない。
「私は…」
が、そこでエイリークは言いよどんだ。
「……何だ?」
「…私は…きれいですか?」
最後まで言い切った途端、エフラムの一切の表情が消えた。
だが、すぐに
「うん、まあな」
という反応をエフラムは返した。
素直にはっきりと言えない自分の羞恥心を、実につまらないものに思う。
まさか、面と向かって昔のように、きれいだな云々とは言えそうにない。誰より大事である事に、今も昔も変わりはないのに。
エイリークの視線が地図に落ちた。
すっと手を伸ばして、エフラムは彼女の頭を撫でる。彼はこうして人に触れるのが好きなのだが、同じ親に育てられたのに、エイリークはそうでもないらしい。何故嫌がるのか、エフラムには未だに理解出来なかった。
蒼い前髪を少しかき分けて、額に口脣を落とした。ぴくりとエイリークの肩が跳ねる。
が、彼女から鼻先に口づけを返してきた。
くすぐったくてつい笑った。すると、エイリークの方でも笑顔を浮かべた。
安心した。
それが見たかったのだ。
(おわり)
アザレア