どうしてこうなった
バーナビーの本日最後の仕事は、化粧品メーカーのポスター写真の撮影だった。だが、イメージキャラクターであり写真のメインとなる女優が脚を負傷し、広報担当者らが写真の構図を如何せんと揉めた為、撮影はラッシュアワーまで延びに延びた。撮影が終わり、適当に挨拶を済ませたところでバーナビーが社に連絡を入れると、もうそのまま直帰していいとの事だったので、駐車場に向かう。その後ろを、虎徹が急ぎ足で追いかけてきた。
そう。面倒な事に、撮影には虎徹も同行していた。勿論、彼にモデルの仕事など来る筈もなく、全てロイズからのお達しである。こうなったのはつい先日、バーナビーが仕事をサボタージュして一日音信不通になったせいだが、バーナビーとしては、虎徹がいない方が仕事に集中しやすい。今日がまさにそうだった。バーナビーが大人しく雑誌でも読んでいろと言ったのにも関わらず、虎徹ときたら、人の話の何を聞いていたのか、脚タレの女性と談笑していた。おかげでバーナビーの方は、虎徹が要らぬ事を喋っていないかと気が気でなかったのだ。
「乗るならさっさとして下さいよ。こっちは疲れてるんですから」
そう言う程には疲れていなかったが、虎徹はバーナビーの言葉をそのまま受け取ったのか、神妙な顔になって運転席側へ回り込んだ。
「俺が運転するよ」
「別に……そこまでしてくれなくてもいいですよ」
「いいから。お前、疲れてんだろ。安全運転で行くから大丈夫だって」
少しも大丈夫じゃない、貴方の運転なんて安心出来ない。そういう文句は次々思いつくのに、何故かそれを口に出して言う事がバーナビーには躊躇われた。虎徹のお節介を断り切れず、黙って車のキーを渡してしまう。彼に言われるままに助手席に乗り、シートベルトを装着しながら、今日の自分はやはり疲れているのかもしれないと思った。
予想通り、車は路上へと走り出して間もなく渋滞に入り、遅々として進まなくなった。それどころか、道路の上にある電光掲示板に自動車事故発生の情報が表示される。虎徹が携帯で調べたところによれば、事故の被害そのものは軽微だそうだが、時間帯が時間帯な上、事故車両に積まれていた荷物の撤去に相当手間取っているとかで、この渋滞はかなり長引きそうとの事だった。
「この状況で、アニエスから呼び出し来たらどうするよ?」
虎徹が携帯をしまいつつ尋ねる。その茶化したような物言いが、今のバーナビーには癇に障る。
「車を停めて、警察に連絡して行くしかないでしょう。ところで……この車、どこに向かっているんですか」
「へ? お前の家じゃねえの?」
「僕がこの車で帰ったら、貴方はどうやって家まで帰るんですか」
「いや、歩きか電車かなあと勝手に思ってたんだけど……」
違うのか、と虎徹がバーナビーを見つめたまま尋ねてくる。指先から全身がざわつき、我知らず言葉が口をついて出た。
「……気持ち悪いんですけど」
「はあ!? どういう意味だよ、そりゃ」
「そっちが妙に親切過ぎるからでしょう。一体何なんです、何か企んでいるんですか」
もしくは、一人で帰りたい理由があるのか。バーナビーと別れた後、誰かと会う予定があるとか。どうでもいい筈の事が、何故か非常に気に掛かった。
「お前なあ……人の親切は素直に受け取れよ。ほんっと、可愛くねえなあ」
「そう思っていただいて結構ですよ」
反射的にそう答える。その通り、虎徹にどう思われようと知った事ではない。自分自身にそう言い聞かせながら、バーナビーは再び視線を車外へと逸らした。どうせ、今日は彼と寝たい気分ではない。
……あの夜から、虎徹はバーナビーの呼び出しを嫌がらなくなった。それは、バーナビーにとってはあまり良くない話だった。虎徹が嫌な顔もせず家に来るまではいいが、必ずといっていい程、「俺にやらせてよ」と言い出されるからだ。
了承する時もあれば、却下する時もある。だが、本心では一貫して却下し続けたかった。彼に任せてしまうと、ペースが狂うのだ。こちらの意思や予想と違う方向から事を進められるせいか、非常に緊張する。むやみにくっつかれるのも落ち着かない。何も考えずにいたいのに色々な事が気になって、終わった後の精神的な疲労が半端ではない。ああ、思い出すだけで気が滅入る。
虎徹が自分の思い通りにならない事が腹立たしい。どうしても思い通りにしてやりたい。が、そうする為に具体的に何をどうしたいのかというと、バーナビー自身にもよく解らなかった。一体何がしたいのかとファイヤーエンブレムにも言われたが、本当に何がしたいのだろう。その答えを求めてあの晩は虎徹に主導権を握らせてみたが、そのせいでもっと訳の解らない事になってしまった。
……おそらく、虎徹にこれ以上何かを要求しても、どうにもならないだろう。事の原因を作ったのも、現在不満を感じているのも、全てバーナビーの方だ。不満の理由を自分で理解しなければ、これ以上虎徹を自分に付き合わせる事も難しくなるかもしれない。
しかし、考えてみれば妙な話だった。何故、自分はこうも虎徹に拘るのだろう。彼について気に入らないところは沢山あるのに、そこを我慢してまで拘泥する程、彼とのセックスに価値があるのだろうか。解らない。だが、まだ手を切りたくはない。


今のバーナビーは、疲れているのではなく、機嫌が悪いから疲れているように見えるのだ。そう気づいた時、ああ、こんなに早かったのかと虎徹は思った。
今日の写真撮影の最中、待機していた脚タレの女性と話が弾んだ。先日妊娠が発覚したばかりで、もうすぐパーツモデルの仕事も引退するのだと幸せそうに語っていた彼女。結婚したのは二十五歳の時だったそうだ。今のバーナビーと同じくらいだなと気づいた時、ふと、虎徹はこう思った。

今のバーナビーが、プライベートな時間ですべきは、自分と会う事ではないのではないか。こんな子持ちの男やもめを振り回す事になど時間を費やすべきでなく、多忙な中で親交を重ね、人生の伴侶となってくれる相手を模索すべきなのではないか。
だが、元々こういう関係を持ちかけたのはバーナビーの方だ。彼の人生だ。彼が終わらせたいと言わない限り、こちらから敢えて口を出す必要もないではないか。

……ひどい自己嫌悪の念に駆られた。すぐに言い訳をして、決断を全て向こうに押しつけ、あわよくばこの関係を続けていこうと目論んでいる自分が嫌になった。
もう、被害者ぶっていられる立場ではない。情が移ってしまったか、あるいはもっと深刻なものか……どちらにせよあの晩以来、虎徹の心の中で、バーナビーに対する見方が思わぬ方向に変わってしまった事は確かだ。けれど、虎徹の心がそちらに向かえば向かう程、バーナビーの方は真逆を向いていく。
つくづく馬鹿な話だと思うが、一回りも年下の同僚に上せた中年の末路なんて、どうせ、こんなものだろう。だが不思議な事に、虎徹の心の中に、バーナビーを心底恨めしいと思う気持ちはなかった。始まりはどうであれ、結局、早々に彼との関係を切れなかった自分も悪かったのだと思う。
一つ、幸運だと思うのは、こんな目に遭ったのが、とうに結婚して子供も出来てからだったという事だ。散々弄ばれた挙げ句に捨てられれば、人並みに傷つきはするだろう。しかし、だからといって今後の人生に絶望する程ではない。始めの頃に何度も考えていたではないか、『どうして自分がこんな目に遭うのか』と。あの時求めていた答えが、今になってようやく得られる。それだけの事だ。
……ただ、最後に彼にしてやれる事があると思った。余計な事をするなとバーナビーは怒りそうだが、その位のお節介は焼いてもいいだろう。こんな風に他人を振り回し、傷つけ、どうにもならなくなって手を切る……そんな事をするバーナビーを、これから相棒として端で見ているのは嫌だった。彼がこちらを利用し、踏み台にして生きていくというなら、それでもいい。ただ、どうせそこまでするならば、バーナビーにはもっと明るい所へ駆け上がって行ってほしいのだ。そうでなければ、何の為にここまで彼に付き合わされたのか、解らなくなってしまう。
「……お前さ、これからどうするんだ?」
「どうすると訊かれても、家に帰りますが。それとも、外で食事していくのかという意味ですか?」
「そうじゃなくてさ……これからもずっと、俺とこんな事続けてくのかって意味」
なるべく平静を装って虎徹がそう言ったのに、バーナビーの方は、眉を潜めて露骨に不快感を見せた。そんな顔をしなくてもいいではないか。虎徹だって、好きでこんな話をしている訳ではないのだ。
「……そちらが終わらせたいんでしたら、考えない事もありませんが」
「……お前さ……」
ステアリングにどっともたれ掛かり、横目でバーナビーをじろりと見やる。車外から差し込む隣の車のヘッドライトの光で、嫌でもその顔がはっきり見えた。憎らしいほど涼しい顔をしている。そんな表情にすら、今や心惹かれるものがある。
「お前さあ、それ、狡いよ。そう言われたら、こっちの答えは一つしかないだろ」
別れてもいいと未練未酌なく言い放てる相手に対して、どうして縋れようか。虎徹にだって、意地もあればプライドもある。こちらは体裁を保てている間に穏便に事を済ませようとしているのに、バーナビーには、それが解らないのだろうか。
「おじさんは、終わりにしたいんでしょう」
「俺の話はいいんだよ。お前はどうなのかって訊いてんだ。さっさと話せよ」
車内の空気と自分自身の感情が重くなっていくのを自覚しながら、虎徹は苛立ち混じりに尋ねた。渋滞中の車ですべき話題ではないと今更ながら気づいてしまったが、一度話を切り出してしまった以上は仕方ない。虎徹は俎上の魚と化し、相手の言葉を待った。

「終わりにする気はありません」

え、そうなの?

「残念でしたね」
「……はあ……」
したり顔のバーナビーにそう言われ、虎徹は唖然としつつも相槌を打った。
この流れでそう来るとは思わなかった。あれ? つまり、どういう事なのだろう。これはどういう事なのだ。何故、この雰囲気でこうなる?
「えっ、ちょっと待てよ。俺……よく解んねぇんだけど、何なのこれ。新手のプレイか何か?」
「プレイって……どんな発想ですか」
「いや……だって……ええ? あー……だーっ! もう!!」
混乱のあまり自棄を起こした虎徹は、すぐ手元の位置にあったステアリングを拳で叩いた。手が滑ってクラクションパネルを押してしまい、けたたましい警笛が鳴り響く。その音に竦んだのか、前方の白いセダンが数十センチ前に進んだ。バーナビーが何か怒鳴っていたが、虎徹は車内から相手のバックミラーを介してひたすら頭を下げる方に忙しかった。
「……今度そんな事をしたら、車から放り出しますよ」
「悪かったよ……で、何の話だっけ……ああ、そうだ。バニー、お前、俺のこと結局どうしたいんだ?」
「それは……まだ検討中です」
「何だそりゃ……よく考えもせずに俺とやってんのか?」
「そんな事言われたって、結論が出ない以上、仕方がないでしょう」
「仕方がないって、お前ねぇ……そんな風に開き直られたって、俺だって困るっての……」
がっくり項垂れて深く溜息をつく。これまで何十回何百回と思ってきた事だが、今、改めて思う。何なんだお前は。一体何をしたいんだお前は。
「……お前、ずっとそんな感じだったの? 今までやった相手にも、そんな事ばっかり言ってきたのか?」
さあ何人の話が挙がるのかなあと、内心不貞腐れながら虎徹が尋ねると。
「あの……ひょっとして貴方、何か勘違いしていませんか? 僕がベッドを共にしたのは、貴方が初めてなんですが」
「……はあ!?」
数秒、理解が遅れた。
停車中で良かった。そうでなければ驚きのあまり、ハンドル操作を誤っていたかもしれない。
「えっ、それじゃ何、お前、童貞のくせに俺のことレイプしたの!?」
「大きい声で変な事を言わないで下さい」
「あ、わりぃ……」
大丈夫だとは思うが、虎徹は念の為に隣の車の様子を伺った。右は大型トラック、左は黒いワンボックスカー。左の運転手は携帯電話で話している最中で、虎徹と目が合うと、「何だこのアイパッチ付けたオッサン、こっち見んな」と言わんばかりの不審げな視線を向けてきた。不躾なのはこちらとはいえ、ちょっと傷つく。
「つうか……え、マジで? ほんとにお前、童貞なの? 女は勿論、男とやった事もなし?」
「何かおかしいですか」
「おかしいって言うか……お前……行動力ありすぎだろ……」
最初の晩にあった出来事を思い出し、虎徹はただただ呆気に取られるばかりだった。経験が無かったくせに、素面であんな真似が出来たとは、にわかに信じがたい話だ。若さのせいか? いや、絶対に違うだろう。
「……参考までに訊くけど、今日、お前の机に届いてた雑誌の『抱かれたい男ランキング』。あれに入った事については、どう思ってるんだ?」
「想像するだけならどうぞご自由に、と。ですが、実際に迫られるのはお断りですね」
「ああ、そう……つまり、全然興味ないってか」
個人の趣味は人それぞれだが、このハンサムが今までどんな夜のソロ活動をしていたのかと想像すると、世間の広さを再確認せずにはいられなかった。
「……誰でもそうでしたけど、おじさんも驚くんですね。僕に交際経験がないと聞くと」
「まあ……お前、顔だけはいいからね」
「今すぐここで降りますか」
「冗談だって……でも、何でだ? お前なら、チャンスはいくらでもありそうだけどな」
虎徹は笑いながら何気なくそう訊いたが、正面を向いたままだった為、バーナビーの顔色が瞬時に変わった事には気づかなかった。
「……誰かと一緒にいる事に、意味を見いだせなかったからですよ」
返ってきたバーナビーの返事は、虎徹の予想を越えて冷たかった。思わず虎徹が隣を見ると、冷たい目をした青年がそこにいる。
どういう意味なのか、と虎徹は反射的に尋ねた。その意味を知ってしまったら、彼を許す事も出来なくなりそうな予感を覚えながら。


「そのままの意味です。誰かと一緒にいても、時間の無駄だとしか思えないし、何よりつまらないんですよ。同じ街で生活している筈なのに、同じものを見ているように感じられない。価値観が何一つ合わなくて、まるで別世界の人間と話しているように感じるんです。今日何があったか、誰がどうしたとか、そんな事は僕にとってどうでもいい。僕が求めているのは、そんな話じゃないんです。でも、相手にしてみれば、僕が気にしている事柄の方が余程どうでもいいんでしょうね。それはそうですよ。普通の人間は、殺人なんてものに縁が無い、平穏な一般人が殆どなんですから」
真正面を向いたまま、バーナビーはそう語り続けた。虎徹の視線を左頬に感じる。彼が今、どんな顔で自分を見ているかは、容易に想像がついた。
「自分勝手だ、冷淡だと非難された事はいくらでもあります。でも、それなら僕にどうしろって言うんですか。こっちは一つの事で手一杯なのに、向こうから勝手に興味を持って、こっちに感情を押しつけてくる……そんな事をされたって、僕の方は困るんですよ。誰かを好きだとか愛しているとか、そういう恋愛感情は僕には必要ないし、また、理解する事も出来ないんです」
今年の誕生日を思い出す。あの時のダイヤと同じだ。それが一般的に美しく、価値のあるものだと言われている事は知っていても、共感する事は出来ない。自分のものにしたいとも思わないし、そうなる想像も全く湧かない。
「……おじさんが前に言っていたように、僕はどこかおかしいんでしょう。でも、仕方ないじゃないですか。どうしたって両親の事は忘れられないし、犯人を憎む気持ちは消せません。その為に他人の気持ちを軽んじて責められたって、仕方ない事だと僕は考えています」
「……お前の復讐の事はどうこう言わねえよ。でもさ、それなら、俺は何なんだ? 俺の事もどうでもいいのか? 俺が何を考えてるか、お前の事どう思ってるか……本当に、どうでもいいって思ってんのか?」
押し殺したような声でそう言われ、バーナビーは車外に目を向けた。……そして、舌打ちした。
「……一番突っ込まれたくない所を突っ込んできましたね」
「……どういう意味だよ」
「突っ込まれても困るからですよ。おじさんの事がどうでもいいか? どうでも良くはありませんよ。だから余計に困っているんです」
バーナビーが虎徹の方を振り向くと、ステアリングに突っ伏していた彼と目が合った。驚いて目を丸くしている彼の肩をがしっと掴んで起き直らせ、尚も言い募る。
「そもそも、どうして僕が貴方の事なんて気に掛けなくてはいけないんですか。貴方ときたら、すぐ人のプライベートに踏み込んでくるし、がさつだし、人の話は全く聞かないし、変なところで頑固で、理屈なんて全然通じない。他にも気に入らない点はいくらでもありますが、挙げていったらきりがありません」
「……ここはスルースキル検定の会場かよ。しかもレベルたけーなオイ」
「だったらスルーして下さい。話はまだあるんですから……とにかく、貴方のような人は本来、僕にとっては我慢ならないタイプなんです。関係を持つ前も持った後もずっと思っていましたが、正直、面倒なんですよ。その性格が」
「散々やる事やっといてそれかよ! つうか、お前にだけは面倒な性格だなんて言われたくねえよ!」
「僕の性格のどこが面倒なんですか」
「どこって……」
虎徹は数秒バーナビーの顔をじっと見つめ、そして溜息をつき、シートにどっと凭れて天井を仰いだ。
「……やっぱお前、よく解んねえわ……」
「理解して下さらなくて結構ですよ。どうせ僕の事なんて、大して気にも留めていないでしょうに」
「……んな事ねえよ」
「どうだか」
「それじゃあ、お前はどうなんだよ。ええ?」
「だから、さっき言ったじゃないですか。どうして僕が、貴方なんかの事を気にしなくちゃいけないんだって」
当たり前のようにバーナビーはそう言ったのだが、何故か虎徹は再び目を丸くした。何を驚いているのかさっぱり解らない。人の話の何を聞いていたのだろうか、この男は。
「それと、ついでに言っておきますが……さっきの撮影の件ですが、ああいう事をされると、はっきり言って目障りです」
「……俺に、お前の目の前から消えろって言うのかよ」
「誰がそんな事言いました? むしろ、僕のいない所で何かされる方が、よっぽど迷惑ですよ」
そこでとりあえず言いたい事を言い終わり、バーナビーは助手席のシートに座り直した。だが、虎徹の方はというと、何か得心のいかない部分でもあったのか、首を傾げてううん?と唸っている。
……この人は、本当に。
「……本当に、どうしようもない人ですね。どうあっても僕の思い通りになってくれない。何故なんですか?」
「何でって、そりゃあそうだろ」
「何故ですか」
「何故って、普通そうだろ? むしろ俺は、お前が何でそんな事言うのか理解出来ねえよ」
「どうして理解してくれないんですか。僕は、貴方がどうしたら僕の思い通りになってくれるか、ずっと考えているのに、どうして貴方はそうじゃないんですか。おかしいでしょう、こんなの……不公平だ」
「はあ……」
虎徹は何とも気の抜けた相槌を打っている。バーナビーの言った事を本当に理解したのか、はっきり言って怪しかったが、まさしくその通りだった。すぐにちょっと考えさせてほしいと言い出したので、バーナビーは腕を組んで、虎徹の鈍い思考回路が働き終わるのを辛抱強く待つ。
二分程経った頃、虎徹が訝しげな目つきでこう尋ねてきた。
「……つまり、お前、俺にもっと気に掛けてほしいって言いたいのか?」
「……まあ……そういう事になるんでしょうか」
気に掛けてほしい。そんな風に考えた事はなかったが、虎徹のその言葉は、驚く程あっさりとバーナビーの中の疑問を霧散させた。確かに虎徹の言う通り、要は、そういう事なのだと思う。自分はこんなに虎徹の事を気にしているのに、虎徹の方がそうでないというのは嫌だ。許せない。
前方の車が少し進んだ為、それに合わせて虎徹が数十センチ程車を前進させる。ステアリングに手をかけたまま、彼はぼうっとして何か考え込んでいたが、その表情は何故か見る間ににやけていった。
「はあ……はいはい、なるほど。そういう事か、ようやく理解したわ……」
「何の話です?」
「いや……あのさあ、バニーちゃん。お前、俺に気に掛けてほしいって言うけど、他の奴に対しても、そんな風に思ってたりすんの?」
「まさか。貴方ぐらいのものですよ。わざわざそんな事を考えるのは」
「はあ、なるほどねえ。うんうん。そうだよなあ。そうじゃないとなあ……」
一体何を考えているのか知らないが、一人合点してにやにやと笑っているのが、どうにも落ち着かない。さっきまでは不機嫌そうだったのに、一体、何がそんなに笑えるのだろうか。
「にしても……やっぱ、お前、めんどくさいわー……」
そう言いながら虎徹はステアリングに突っ伏し、笑い声を堪え始めた。反比例してバーナビーの苛立ちが募っていく。ここが車内でなかったら、思わず虎徹の脚を蹴っているところだ。
「はっきり言って下さいよ。何がそんなに面白いんですか」
「いやあ、流石に言えねえよ……あー……でも、どうしよう。俺、お前の家に着くまで、笑い堪えてられる自信がねえわ」
「……僕の家に来るんですか」
「だって、俺の話、気になるだろ?」
「まあ……気にはなりますけど」
「うんうん、そうだろそうだろ」
すっかり機嫌を良くした虎徹が、バーナビーの頭をくしゃくしゃと撫でてくる。髪を乱されてバーナビーが抗議の声を上げたのと、虎徹の携帯が鳴ったのは同時だった。携帯の画面に表示された名前は、ロックバイソンの本名。何故こんな時に電話をかけてきたのかと、バーナビーは訳も解らず不快な気持ちになった。
「はい、もしもし? ……ああ、うん。今? これからバニーと帰るとこ。それがさあ、渋滞にはまっちゃって……そう、それ。で、何で電話かけてきたんだ? ……ああ、その事かあ。心配要らねえよ。もう大丈夫だからさ」
電話に応対する虎徹のにこやかな表情が気に食わない。この渋滞、今すぐにでも解消されないだろうか。そうしたら、虎徹もすぐに電話を切らざるを得なくなるだろうに。
そう思いながらバーナビーが虎徹を睨んでいると、虎徹がこちらを見て笑った。親友との通話を続けながらバーナビーの方に右手を伸ばし、左の耳を触ってくる。くすぐったさにバーナビーが身を捩っても、虎徹の手はしつこく伸びてくる。なので左手で振り払おうとすると、今度はその手を握ってきた。
ちょっと、何なんですか。目でそう訴えながら、バーナビーは虎徹に握られた手を振り払おうとした。が、虎徹の右手はがっしりとバーナビーの左手を掴んで放そうとしない。悔しい事に、ぶんぶん振っても右手を使っても一向に引き剥がせないので、バーナビーは仕方なく諦めて、虎徹が手を離してくれるのを待つ事にした。
……話が長いなと思いながら、ちらりと見やれば、虎徹と目が合う。思わず目を逸らすと、ただでさえ強く握られた左手に、一層力を入れられた。はっきり言って、痛い。抗議の意を込めてバーナビーの方からも強く握り返してやったが、虎徹の表情は変わらず笑顔のままだった。
……ふと、思い浮かんだ。自分が虎徹としたかったのは、本当はこんな、何でもないような事だったのではないか。
五分とも十分ともつかぬ長い電話が終わり、虎徹が携帯をポケットにしまってからバーナビーを見た。
「……いつまでこうしているんですか。そろそろ放して下さいよ」
「とか何とか言って、ほんとは放してほしくないんだろ?」
「なっ……!? へ、変な事言わないで下さい! 誰がそんな事……!」
虎徹の戯言にかっとなったバーナビーは、彼の手を思い切り振り払った。今度は驚く程あっさり手が放され、そうされた途端に後悔の念がどっと押し寄せてきた。
虎徹の方はというと、まるでそんなバーナビーの胸中を全て見透かしたかのように笑っている。渋滞がようやく解消されつつあるのか、周囲の車がのろのろと前進し始めた。
「……おじさん。さっきの話なんですが、やっぱり今すぐしてくれませんか」
「えー、そんなに聞きてえの? ここだとちょっと、雰囲気とかさあ……」
「そんなのどうでもいいです。気になるんですよ。さあ、今すぐ話して下さい」
「そんな事言っちゃって、いいのかなあ。明日、恥ずかしくて部屋から出てこられなくなっても知らねえよ?」
「……どうして僕が恥ずかしい思いをする事になるんですか?」
「だって、お前の性格だと、絶対そうなるもん」
と言ってから、その様を想像したのか、虎徹はまた一人でステアリングに突っ伏して笑い始めた。腹が立ったバーナビーは、その背中をばしんと叩く。
「さっさと話して下さい。それとも、また苛められたいんですか」
「いいよ。お前になら、何されても」
……驚きのあまり固まったバーナビーに、虎徹が笑いかけながら言う。
「でも、そんなにバニーちゃんが知りたいって言うんだったら、教えてやるかな……お前さ、俺のこと――」


一階のロビーで他部署の同期と言葉を交わした後、自分のオフィスへ戻る途中で、ロイズはついでにヒーロー事業部のオフィスの様子を伺って行く事にした。今日は経理担当の女史が風邪で休みだそうで、つまり、オフィスには虎徹とバーナビーしかいない。さて……問題なく仕事をしてくれているか。全くもって、嫌な予感しかしない。
そうっと影から顔だけ出して、様子を伺う。虎徹もバーナビーもオフィスにいた。二人共、大人しく自分のデスクに向かってパソコンのキーボードを叩いている。キータッチのスピードはバーナビーの方が遙かに速く、虎徹は何かに詰まっているようだった。
「……バニーちゃん。これ、また動かなくなったんだけど、どうすりゃいいの?」
「またですか。仕方ないですね……」
バーナビーが立ち上がって虎徹の隣に立ち、パソコンの画面を数秒凝視する。
「……ああ、これはこれでいいんですよ。データが重いので、処理に少し時間がかかっているだけです」
「じゃ、このまましばらく放っときゃいいのか?」
「そうですね」
「んじゃ、その間にちょっくらコーヒーでも淹れるかな……お前も飲むか?」
「ええ……あ、いえ、僕が淹れますよ」
「いいっていいって」
虎徹はそう言いながら立ち上がると、不意ににやりと笑って、バーナビーの頬にちゅっと口付けた。いきなりの事にバーナビーはたちまち赤くなるが、すぐに相好を崩す。
「虎徹さん……まだ仕事中ですよ」

……やはり、こうなっていたか……。

この部下二人がぶっ壊れたのは、ジェイク・マルチネスの事件の後からだった。いや、事件の少し前から妙な雰囲気ではあったのだが、本格的におかしな事になったのは事件が終わり、虎徹が退院してきた辺りからだった。
仕事中にいちゃいちゃ。休み時間にいちゃいちゃ。出動中にもいちゃいちゃ。オフの時も多分いちゃいちゃ。とにかくもう、四六時中くっついている有様だ。このあまりの変わり様には、ロイズもただただ呆れるしかない。スケジュールが許すのなら、どちらも再入院して頭の方を検査してきた方がいいと思う。
虎徹が新しいエスプレッソマシーンでコーヒーを淹れている側で、バーナビーが露骨にやきもきしながら虎徹の様子を見守っている。たかがカップをセットしてスイッチを押すだけの作業に、何をそんなに気を揉む必要があるというのか。
「そのくらいなら僕がやるのに……」
「これくらい平気だってば」
「ですが……」
「……昨日の晩だって平気だったろ?」
虎徹がバーナビーの腰に腕を回して囁く。小さい声だったがオフィスが静かなせいで、聞きたくもない話がロイズの耳にまで聞こえてきた。
見つめ合う二人がどちらからともなく顔を寄せ合ったところで、うおっほんとわざとらしい程大きい咳払いをしながら、ロイズは姿を現した。二人がぱっとロイズの方を見る。バーナビーは羞恥心からか、少し恐縮した様子を見せたが、虎徹の方は恬然として恥じる風もない。首を切る事も他部署に飛ばす事も出来ないのをいい事に、この男は……。
「あっれぇ、ロイズさんじゃないですか。どうしたんです?」
「君たちが真面目に仕事してるかどうか気になってね……大層仲がいいようで何よりだよ、ほんと」
「あ、やっぱりそう見えます? いやー照れるなあ」
「……虎徹くん。君ねぇ……ついこの間まで、バーナビー君がセクハラするって言って私に泣きついてたのは、一体、何処の誰でしたっけ?」
「ええ、そんな人いましたっけ?」
皮肉をものともしない虎徹の面の皮の厚さに、ロイズは頬を引きつらせた。
……今となって痛感する。あのセクハラを黙認したのが、自分の最大の失敗だったと。
「虎徹さん、コーヒー淹れましたよ」
「サンキュ。あ、ロイズさんもコーヒー飲みます?」
「いえ、結構」
二人が使っているエスプレッソマシーンは、ロイズが入れさせたものだ。ジェイク事件前の、虎徹とバーナビーの関係が面倒なものだった頃、「真面目に働け」という意を込めて新調させたもの。それがまさか、違う意味で「真面目に働け」という意になろうとは。
……バーナビーの分のコーヒーが入ると、二人はロイズが呆れ返っているのには目もくれず、勝手に話を始める。
「……そういえば、ちょっと思い出したんですけど」
「うん、何?」
「『コーヒー・カンタータ』という喜劇がありまして、その中に『コーヒーは千回のキスより素晴らしい』という台詞が出てくるんですよ」
「へえ……今度試してみるか?」
「でも、一日じゃ不可能ですよ」
「一日で完遂しなくてもいいだろ? 一日一回なら、三年ありゃ完遂出来るじゃん」
「……一日にたった一回しかしないんですか?」
絵に描いたようなバカップルの会話。駄目だ。とてもいたたまれない。普段、この空気をものともせずに仕事している経理女史の剛胆さには、ひたすら感服するしかない。

ああ、どうしてこんな事になってしまったのだろうか。


(終)

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バニーちゃんがやたらおじさんのケツを開拓しようとしたのは、おじさんに気持ちよくなってもらいたいという親切心からです。いや、ほんとに。