どうかしている
ランチタイムまであと一時間。最近、会社ビルの近くにオープンしたカフェの、スモークサーモンが入ったサンドイッチ。今日の昼食はあれにしようかと考えていたロイズの元へ、何の前触れもなく虎徹がやって来た。こちらが呼び出せば渋々来るくせに、自分から来る時には事前の連絡も無しとは、何ともいい性格をしているではないか。
あのねえ、いきなり何なの。私は君が思ってるほど暇じゃないんだよ。で、どうしたの。また何かやらかしたの。うんざりした気分を隠さずにそう尋ねると、虎徹は何だか憔悴しきったような声色で、
「すんません。実は、ロイズさんにどうしても相談したい事があって……」
と、口にした。
すわ、トラブルか。同僚との不和についてか、または金銭絡みだろうとロイズは当たりをつける。何をしでかしたか知らないが、少なくとも健康問題ではないだろう。何とかは風邪をひかないという日本の諺があるそうだし。
「私に相談? 何、また何かやらかしたの君」
「ええ、実は、バニーとの事でちょっと……」
「またなの……君たちねえ、一体、いつになったらうまくやれるようになるの。何で彼と仲良く出来ないの。あと、バニーじゃなくてバーナビーって呼びなさいって、何度言ったら解るのよ、君は」
「お、俺だって仲良くしたいんですよ! だから俺なりに頑張ってみたんですけど、そのせいで、こちとら偉い目に遭ってんですよ!」
いきなり切れた虎徹が、ハンチング帽を掴んだ手でロイズの机をバンと叩いた。
「……一体、何がどうしたっていうのよ」
どうせ虎徹が騒いでいる程大した事ではあるまい、と考えながら、ロイズはのんびり立ち上がってエスプレッソマシーンのスイッチを押す。最近取り替えたばかりのこの新しいマシンは、味と温度の二点において満足のいくものだった。席に戻り、そのエスプレッソに口をつけたところで、虎徹がハンチング帽を胸の前でいじりながら、やや重たげな口ぶりでこう言い放った。
「……あいつ、俺にセクハラしてくるんですよ」
その一言で、ロイズは盛大にコーヒーを噴いた。デスクの前に立っていた虎徹の方への被害はなかったが、机の上に広げていた書類が、見るも無惨な事態になり果てる。
「だ、だいじょぶっすかロイズさん」
「……大丈夫なわけないでしょ、君、いきなり何言ってんの。え?」
ハンカチで口元や書類を拭いながら、ロイズはジト目で虎徹を睨んだ。今の虎徹の発言があまりに突拍子もなさ過ぎて、自分を困らせる為の、新手の悪戯か何かかとさえ思えてきてしまう。
「そりゃ、いきなりこんな事言われたって信じてもらえないでしょうけど……でも、本当なんです。ええと……今日を入れたら十日前か。その日の晩にあいつの家に行ったんです。一緒に晩飯食う約束だったんですけど、何でか、その後であいつに……やられたんです、無理矢理」
ロイズは今の話を聞かなかった事にしたかった。予想だにしない話に、目眩さえしてくる。コーヒーまみれになった書類の心配をする心理的余裕すら、あっという間に失われていった。
「……やられたの? 無理矢理?」
「はい。あっ、やられたって言っても、俺があいつにやられたんじゃなくて、あいつが俺を縛り上げて、そんで無理矢理乗っかってきて……」
「そんな事まで訊いてないの」
「はい……」
……気まずい沈黙が漂う。ロイズははあと大きい溜息をついた。この話の続きを聞くのが、嫌で嫌で仕方なかったからだ。
ここまでの虎徹の発言だけを参考にするなら、バーナビーが虎徹にした事は、どこをどう見てもレイプ以外の何物でもない。だが、先程、虎徹はセクハラされていると言っていた筈だ。つまり、この話にはまだ何か続きがあるという訳で……ああ、戻りたい。今朝、自宅のベッドで目を覚ました瞬間まで戻りたい。今なら、見慣れた妻の寝顔が女神の微睡みのように見えることだろう。
「……あんまり聞きたくないけど、それで君たち、どうなったの」
「それで……終わったら、バニーに解放されてすぐ、俺はとっとと帰りました」
「酔ってたんだよね。その晩、君たち酔ってたんだよね。お願いだから、そうだと言ってちょうだい」
「俺はちょっと飲んでましたけど、バニーの方は全然……」
ロイズは頭を抱えた。オーマイガッシュ。何ということだろう。人間、同じ一つ所で働いていれば、そりゃあ色々なトラブルが起こりうるが、この発想は全くなかった。何と言っても虎徹はただの冴えない男やもめだし、バーナビーの方は、そちらの方面に関しては全く綺麗で手のかからない青年だった、筈。なのに。
「……それだけで終わるんなら、俺もまだ我慢しましたけど……バニーの奴、あれから俺に毎日迫ってきて……」
「毎日って……四六時中いつも?」
「いや、仕事中は前と全然変わらない態度なんです。けど、仕事が終わってさあ帰ろうってなると、家に引っ張りこもうとしてくるんです」
「当然、断ったんでしょうね?」
「断っても聞いてくんないんですよ」
「なら、力づくで抵抗しなさいよ。君、そういう事されて大人しくしてるようなキャラじゃないでしょうに」
「抵抗しましたよ。でも、だからって能力使う訳にはいかないでしょ。事件がいつ起こるか解らないんですし。それに、例え抵抗していっぺんは無事に逃げおおせたとしても、その後でとんでもない事になるんですよ。もうね、めっちゃ怖いんですよ、あいつ。俺がどんなに嫌だって言ってもガン無視で、黙って寝てろの一点張り。いっそ車で逃げ帰ろうとしたら、あんにゃろう、先回りして俺の車で待ち伏せしてやがりました。しかも俺の車のキー持って。もう何なんですか、あいつ……ロイズさん、バニーの奴にそういう性癖あるって知ってました?」
「知ってるわけないでしょ。知ってたら、コンビ組ませる前に君に重々言い含めてますよ!」
「ですよねぇ……」
二度目の気まずい沈黙。
ロイズが初めてマーベリック社長の口からバーナビーの話を聞かされた時、彼のこのような性癖を示唆する台詞が、果たして一言でもあっただろうか。懸命に記憶を辿ってみたが、それらしい話を聞いた覚えはない。マーベリックですら知らない事だというのなら、この話を、自分は一体どう処理したらいいのだろうか。
「……虎徹くん。この事、他の人には話していないでしょうね。特に、マーベリック社長には」
「んなっ……言える訳ないでしょう! だって社長って、バニーの後見人なんでしょ。そんな人に、こんなえげつない話、いくら何でも聞かせられませんよ」
「まあ、そうだね。それ聞いて安心したよ」
マーベリックの耳にこんな話が届いていたら、おそらく、ロイズはこの席に安穏と座っていられなかっただろう。
「……あのねえ。念の為に確認するけど、君が、バーナビー君に、言い寄られているんだよね。逆じゃないんだよね?」
「違いますよ! 何で、俺がバニーに言い寄らなきゃならないんですか」
「いや、だってねえ……君、自分のスペック解ってる?」
そう言うと、ロイズは値踏みするように虎徹の全身を眺めた。
ロイズの知る同性愛者は、所謂エリート層の人間だった。性的指向を取り沙汰するのが無意味な程、社会的地位が高く経済力に溢れた人間たち。そういう男性にバーナビーが手を出すというのならまだしも、何故にどうしてこんな、全てにおいてバーナビーより劣っているような男に手を出したのか。正直、趣味が悪いとしか思えない。
「そう言いますけどね、大体そもそも、今までこんな事なかったんですよ!? 別に俺は、あいつに変な事した覚えもありませんし、あいつも全然そんな素振り見せませんでしたし……同じ趣味の奴と同意の下でやれ、ってこっちは何度も言ってるんですけど、全然聞いてくれないんです」
「何で? 理由は言ってた?」
「……俺の体が気に入ってるんだそうデス」
「ああ……そう……」
流石にロイズも虎徹の事が哀れに思えてきて、思わず彼から目を背けた。バーナビーが求めているのは虎徹の肉体だけで、他はどうでもいいという訳か。
「……ねえ、バーナビー君って、他の誰かにそういう事はしてるの? 例えば、他社のヒーローとか」
「いや、それはないみたいです。少なくとも他のヒーロー連中には、そういう事はしてないんじゃないかと……」
「なんで解るの?」
「……そりゃ、だってここ最近ずっと、あいつの家に連れ込まれてるもんで」
「……ずっと?」
「十日間、ほぼずっと。おかげで、ここ最近はずっと朝帰りですよ、俺。もう勘弁してほしいんですよ……睡眠はなんとか足りてますけど、色々、精神的に限界なんすよ。今んとこは大丈夫ですけど、いつかあいつに掘られるんじゃないかと思うと、気が気じゃないんです」
ロイズだって気が気ではない。話を聞けば聞くほど、頭が痛くなってくる。
他社のヒーローを巻き込んでいないのなら、まだ自社内で内々に事を収める余地がある。だが、自社内での事だからこそ、簡単には処理出来ない問題でもある。
現時点でロイズが採れる最も簡単な解決手段は、ずばり、虎徹の首を切る事だ。バーナビーの首を切る事など、まず考えられない。しかしながら、虎徹の首を切る事とて、容易に出来る事ではない。ワイルドタイガーと契約し、自社のヒーローとして売り出すにあたっては、膨大な資金が費やされているのだ。
……自分が役員会で吊し上げられる様を想像し、ロイズは身震いした。
「とりあえず……この話は、誰にも他言無用ってことで。絶対。いいですね?」
「構いませんけど、でも、どうするんです?」
「バーナビー君を呼んで話をします。彼からも事情を聞かないと、何ともしようがないでしょ。で、彼は今どこ?」
「あいつなら、自分の机で仕事してました」
「そう。なら、今から彼を呼ぶから。君は仕事に戻ってなさい。君がいると面倒なことになりそうだし」
ああ、今日のランチは遅くなりそうだなと思いながら、ロイズが机の上の電話機に手を伸ばした時、電話が鳴った。社内通話を知らせるランプ。嫌な予感しかしない。
「……はい、もしもし?」

『バーナビーです。お忙しい中すみませんが、おじさんはそちらにいませんか?』



それから数十分後、同階の男性用トイレ個室内にて。

「……あっ、ロイズさん? どうでした?」
ロイズとバーナビーの話が終わるまでの間、個室に潜んでロイズからの電話を待っていた虎徹だったが、電話の向こうの上司は、画面を見つめたまま口を開かない。
「……あの、ロイズさん?」
『……虎徹くん』
「はい?」
『諦めなさい』
「って、ちょっとぉ!? そりゃあないでしょう。何とかして下さいよ。貴方、俺らの上司でしょうが!」
『駄目。無理。彼、私の言うこと全然聞かないんだもん。君と手を切るつもりは絶対にないんだって』
「そんなぁ……」
虎徹はトイレの壁にもたれたまま、がっくり項垂れた。ロイズが注意しても聞かないとは、あの盛りのついた三月ウサギは、ちょっと頭がおかしいんじゃないだろうか。
『私もねぇ、一応、説得しようと頑張ってはみたんですよ? でも、私にも立場ってものがあるんです。相手は、マーベリック社長の秘蔵っ子なの。その辺、解ってちょうだいよ』
「んな事言われたって……」
『とにかく、私にはどうしようもないから。解決したいのなら、君たち二人で話をつけてちょうだい。言っておくけど、社外には絶対漏らさないように。他のヒーロー達にもだよ。この件が公になったら、君だけじゃなく私の身まで危ういんだからね。いいね、解った?』
「いや、解ったかって言われても……」
『それじゃ、ランチに行くから私はこれで』
「って、ちょっと、ロイズさーん!?」
一方的に電話を切られ、虎徹は慌てて個室のドアを開いた。が、すぐ目の前には、見覚えがあり過ぎる赤いライダースジャケットの青年の姿。
「ギャアアアアアア!!!!」
虎徹は反射的に悲鳴を上げて個室に引っ込み、即座に内鍵をかけた。何かいた。赤い服着た仏頂面の何かがいた。
どくどくと激しく脈打つ心臓を沈めながら、虎徹がそうっとドア越しに向こうの気配を伺っていると。
「おじさん」
いやあああああああ!!!!と心の中でだけ悲鳴を上げて、虎徹はドアから飛び退いた。個室の隅っこでガタガタと身を震わせる。
今まで、会社でバーナビーに何かされた事はない。だが今は、ロイズとの話の直後というタイミングだ。さっきまでの電話内容もきっと立ち聞きされていただろうし、多分きっと、想像するだに間違いなく、今のバーナビーは機嫌が悪い。やばい。今夜が怖い。逃げたい。助けてヒーロー! いや、自分も相手もヒーローだけど!
「おじさん」
いないいないいない。ここには誰もいない。
「おじさん」
誰もいないんだってば。中に誰もいませんよー。
「おじさん」
……いい加減にしろよこのエロガキ、中に誰もいねえっつってんだろゴルァ!!
よくよく考えれば、何で自分がバーナビーなんぞに、この身を好き放題弄ばれなければならないのか。次第に腹が立ってきた虎徹は、思い切ってガツンと怒鳴り付けてやろうと思い、内鍵を外そうとした。

ドガァンッ!!!

二度目の内なる悲鳴を上げて、虎徹は再び壁へと張り付いた。
今、ドアの向こうにいる筈の青年は何をした? 凄まじい音と、軋んだトイレのドア。今の、お聞きになりました奥様? 蹴りましたわよこの子。ヒーローの癖に、この子、トイレのドア蹴りました!
「おじさん、さっさと出てきて下さい。斎藤さんに呼ばれているの、忘れたんですか? スーツの調整があるって言ってたでしょう。早く出てきて下さい」
「……」
「……おじさん、返事は?」
「……はい……」
泣きたい。むしろ泣かされている。だが、虎徹が涙声になっているのにも関わらず、向こうのバーナビーの声は氷のように冷たい。今の虎徹は、心底バーナビーの事が怖くてたまらなかった。何が期待の新人だ、人気急上昇中のスーパールーキーだ。ここにいるのは、ただのサディスティックな暴君ではないか。
「さっさと出てきて下さいよ」
「いや、あの……実は俺、まだ踏ん張ってる最中で」
「さっき出てくるところだったじゃないですか」
「きゅ、急に催してきたんだよ。だから、バニーちゃんは先行ってろよ。な?」
「そうですか」
……トイレ内が静まりかえる。言う通りにしてくれるかな、と期待した虎徹だったが……そのささやかな期待は、トイレのドアを蹴られて文字通り一蹴された。

「さっさと出てこないと、今晩、指突っ込みますよ」

……十日前の最大級のトラウマを引っ張り出され、虎徹は泣く泣く個室から姿を現したのだった。

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