シンデレラ (2)
翌日。
ゆーちゃんは8時半になっても起きて来ませんでした。休日なので、8時までなら美子ママも大目に見たのですが、待ちかねてゆーちゃんを起こしにやって来ました。
「ゆーちゃんっ、起きなさい! 今日は練習日なんでしょ?」
「…うー…」
ゆーちゃんは布団を被って丸まりました。その声は朝から何だか沈んでいます。
「どうしたの、ゆーちゃん? お腹が痛いの?」
「そんなんじゃないけど…」
玄関のベルが鳴りました。

「しーぶーやーくーん」
ムラケンが迎えに来たようです。
ゆーちゃんは仕方なくのそっと起き出しました。


「元気ないなあ、渋谷。そんなに昨日のアレがショックだったのかい?」
「アレって?」
「ほら、あのハンサムさんと熱烈なキ…」
「わああああっ! やめろー!」
そこから先は聞きたくないと言わんばかりに、ゆーちゃんは大声を上げて耳を塞ぎました。
「さては、渋谷、ファーストキッスだったんだね?」
「言うなー!」
ゆーちゃんの反応が楽しいので、ムラケンは更に続けました。
「でも一発殴って逃げてくるなんてなあ。てっきり、あの後2人で…」
「何言ってるんだよオマエっ! 大体、何で助けてくれなかったんだよ!?」
「面白かったからねぇ」
ゆーちゃんは昨夜のキスを思い出して、思わず唇を手の甲で拭いました。舌を少し入れられた事を思い出すと、ぞわぞわっと鳥肌が立ちました。
「やっぱさ…亀の甲より年の功って言うの? お袋や勝利の言う通り、行かなきゃ良かったよ…」
オトナの世界には危険がいっぱい、という事を、嫌という程その身で思い知ったゆーちゃんでした。



その頃、コンラートは自宅の自室に引かれている専用電話の側に椅子を持ってきて、座っていました。
一晩明けても、やはり、フリの事を忘れられなかったのです。招待客の名簿にフリの名前はありませんでした。ですが、フリの連れの眼鏡の少年が親しげに会話していた相手・ボブとコンラートは知り合いだったので、彼に連絡を取ってみました。
「それではボブ、貴方が昨夜話をしていた相手は、『ムラタ・ケン』と言う名前なんですね?」
『そうだ』
ボブはムラケンに連れがいた事を知らなかったので、コンラートはそれ以上彼から情報は得られないと思い、一旦電話を切りました。
そして取り出したるはハ○ーページ。
市内で『ムラタ』という名字で引くと、ざーっと名前が出てきました。
いざ、上から番号をダイヤル。

ジーコジーコジーコ(←ダイヤル音)。

『はい、村田ですが』
「あ、おはようございます。ケン君いらっしゃいますか?」
『ケン…? 当家にはそのような者はおりませんが…』
「あ、そうですか。番号を間違えたのかもしれません。失礼しました」

プツリ。

コンラートはすぐに次の番号に電話をかけ始めました。地道な方法です。
コール音を聞きながら、ここまでやるとは、今回はかなり本気みたいだなあ…と、コンラートは思いました。



ゆーちゃんは昨夜のショックを晴らさんばかりの勢いで思いっきり打って投げて走りまくりました。チームのメンバーも、何かあったのかと驚くばかりです。
ベンチに戻ると、ムラケンがゆーちゃんにタオルを差し出してくれました。
「渋谷、あんまり飛ばしまくってると、怪我しないかい?」
「だって…」
「思い出すのかい? あの人、キス上手そうだったからねえ」
「やめろ言うなー!!」
ゆーちゃんは頭を抱えて叫びました。
ムラケンは苦笑しながらグラウンドの外に何気なく視線を向けます。ネットの向こう、塀越しに、誰かがこちらに手を振っているのに気づきました。
「あれ? 渋谷、あの人、昨日のハンサムさんじゃないかい?」
「何言ってるんだよ、あんなハンサムがそこら辺にいる訳…」
ゆーちゃんは顔を上げました。
「って、いたよーーー!!!!! 何でーー!?」
塀の向こうでサワヤカ笑顔をまき散らしているのは、紛れもなくゆーちゃんのファーストキッスを奪いやがった青年・コンラートでした。
笑顔で手を振りながらこちらのベンチへとやって来ます。グラウンドで練習していたメンバーも、稀に見るハンサムさんが来た事で動きを止め、事の成り行きに見入っていました。
ゆーちゃんはばっとムラケンの後ろに隠れました。コンラートが怒っているだろうと思ったのです。何故なら、コンラートがキスした相手、つまり自分は本当は男だったのですから。今の野球のユニフォーム姿では、その事は一目瞭然です。
「渋谷、どうしたのさ? せっかく会いに来てくれたんじゃないか」
「シブヤ?…フリじゃなくて?」
「フリって…何だ渋谷〜、何だかんだ言って、『原宿不利』なんてアダ名まで教えちゃう仲になってたんじゃないか。この人と」
「アダ名? それじゃ、本名は?」
「し…渋谷有利デス…」
「『ユーリ』…」
微笑みながらコンラートに名前を呼ばれ、ゆーちゃんは不覚にもドキっとしてしまいます。が、慌てて我に返りました。
見かけのサワヤカさに騙されてはいけません。この男の人は、何の断りもなく人にちゅーした上、舌まで入れてきたのですから。
「よくここが解りましたね〜」
「ボブから、君の友人の名前を聞いて…」
ああなるほど、と、ムラケンは納得したような素振りを見せました。
「…もう一度貴方と会いたかったんですよ」

何故ー!?

ゆーちゃんはびっくりしてしまいました。事態を見守っていたメンバーがざわざわっとどよめきます。
「あの…それで、ご用が…?」
ゆーちゃんはおずおずと尋ねました。
「うん。だけれども、練習が終わってからでいいよ。待っているから」
じゃ、と、コンラートはグラウンド外に出ていきました。
「村田! おれどうしよう!」
「何怯えてるんだよ渋谷、わざわざ君を探し出すなんて、余程本気になられたみたいだね」
「やっぱり本気で怒ってるのかな、おれが女装してたから…」
「? どういう事だい? それ」
「だからー、あの人、おれにキ、キ、キスしたろ?」
「うん。アッツーいキスだったよね」
「そ、それでだ。あの人、当然ながらおれが女だと思ってそうした訳だろ? なのにおれが男だって知って、絶対今怒ってるに決まってるじゃん! ああー、どうしよう…」
塀の向こうのコンラートはとてもにこにこしていますが、腹の中では何を考えているか解ったものではありません。舞踏会の一件が元で、ゆーちゃんはコンラートを警戒していました。
「そうかなあ…? でも渋谷、すごいよね。王子様のハートまで射止めちゃうなんてさ。昨日の展開と照らし合わせてみると、さながら『シンデレラ』だね」
「『王子様』…? ああ、あの人カッコいいから? でも王子様って形容詞かなあ…?」
野球一筋のゆーちゃんがコンラートの顔を知らなくても、まあ無理ないかな…と、ムラケンは思いました。

練習は延びに延びて午後5時に終わりました。
片づけ終了後、チームメンバーは全員帰宅し、ついでにムラケンまでもが笑顔で帰ってしまい、ゆーちゃんとコンラートだけがグラウンドに残されました。
「あ…あの…」
もじもじしながら佇んでいるゆーちゃんの姿は、夕日の色を全身に受けていました。

やっぱり、この人には黒の方が似合う。

「ごめんなさい!! すみませんっ!」
「えっ?」
いきなりゆーちゃんが深々と頭を下げたので、コンラートはびっくりしてしまいました。ですがそれは一瞬の話で、すぐにふっと微笑を浮かべました。
「おれ、本当は男だったんですっ! ああ、でも昨日女装してたのは、決してそういう趣味があるとか言う訳じゃなくて、避けられない深ーい事情があって、と言うか、とにかく、ごめんなさい!」
「何だ…謝る事なんてないですよ。貴方が男である事は、分かってたんですから」
「…へ?」
意外な展開です。ゆーちゃんは顔を上げました。
「最初は本当に女の子だと思ってたんですけどね。胸がないのも、あんまり疑問に感じなかった」
可愛すぎて、と、コンラートは心の中でだけ付け加えました。
「じゃあ…何で、おれが男だって…?」
「手に、キスした時」
「…」
「うっすらだったけれど、グローブオイルの匂いがしたんですよ」
「あっ…」
そう言えば、昨日、グローブを磨いた記憶がありました。勿論手を洗ったのですが、匂いが染みついていた様です。
「それで注意してみたら、女性の手にしてはがっしりしているなあ、とも思いまして。それに、女性で野球をやっている人はそんなにいませんから、ひょっとして男の子なのかな…と思いながら見ていると、そうだって気づいたんですよ」
「じゃあ言ってくれれば良かったのに。おれってば、似合わない女言葉なんて使っちゃってさ」
「男なんだろう、って言ったら、貴方があの場から立ち去ってしまうような気がしたんですよ」
「当たり前だろ!? 女装してるなんて、おれなら、恥ずかしい以外の何物でも無いもん」
「でも可愛かったですよ。こっちが、貴方が男だってコトを忘れてしまう位に」
「は…?」
ゆーちゃんはそのコンラートの台詞に動揺し、頭が混乱してボールを取り落としてしまいましたが、コンラートは黙ってゆーちゃんが落としたボールを拾い上げました。
「野球か…しばらくやってなかったな、そう言えば」
「…え? コンラートも野球やるの?」
「少し。今はやってないんですけどね。大学もあるし」
「へぇ…」
それをきっかけに、ゆーちゃんとコンラートは野球について沢山話をしました。じっくり会話してみると、コンラートは人当たりのいい、優しいお兄さんといった感じで、ゆーちゃんの警戒心は解れてしまいました。



コンラートはゆーちゃんは車で家まで送ってくれました。
「ありがとう、ここでいいよ」
シートベルトを外しながら、ゆーちゃんはコンラートにお礼を言いました。
「そうだ、ユーリ。メールのアドレスを教えてくれないかな?」
「あー、ごめん。おれ、携帯って持ってないんだよ。家の電話番号でいい?」
「もちろん」
コンラートはゆーちゃんの自宅の電話番号を手帳にメモし、別のページに自分の電話番号を書いてゆーちゃんに渡しました。
「上のが自宅ので、下が携帯の番号。自宅の方は俺の部屋に直通だから、気兼ねしないでかけていいよ」
「え? じゃあコンラッドって家族と同居してるんだ」
「うん」
「そうなんだ、へえ…」
今日ほど『独り暮らしだったら良かったのになぁ…』とコンラートが思った事はありませんでした。
「じゃ」
ゆーちゃんが車から降りました。が、コンラートも運転席からわざわざ降りてきます。
「何?」
コンラートはにっこりと微笑んでいました。そして、ゆーちゃんにキスしました。一瞬でしたが、はっきりと。
「…えっ?」
そういう展開を予想していなかったゆーちゃん、昨晩のようにコンラートを殴る事さえ忘れ、呆然としていました。
「さようなら、ユーリ。今度、電話するからね」
コンラートはそうして別れの挨拶を済ませると、自分の車に乗って渋谷家の門前から去りました。
後には静けさとゆーちゃんが残りました。
ひゅるるー、と、風が吹きました。ゆーちゃんはただただそこに立ちつくしていました。
「…おれの…おれの……」

セカンドキッスまでもが男に取られた……


しかも……ちょっと気持ちよかった……


「って、何考えてるんだおれええええええ!!」
ご町内一帯に、ゆーちゃんの叫び声が響き渡りました。



ゆーちゃんは果たしてコンラートの毒牙から逃れられるのでしょうか。
それはまた、別のお話です。




(終わり)